篠山の歴史・見処を訪ねる-曽地


天正の首塚



道端にある天正の首塚


長福寺跡の尾根先にある長福地蔵 ・ 曽地の風景(20080504)


ホタルの出番を待つ人たち(20090613) ・ 厄除祭で知られる曽地八幡(20090108)

織田信長の命を受けて丹波攻略戦を展開した明智光秀に対し、果敢に抵抗したのが八上城主波多野秀治と氷上黒井城主赤井直正であった。光秀は波多野方の諸城を攻略し、戦意旺盛な八上城に対しては厳重な包囲網を敷き 兵糧攻めで干し上げる作戦をとった。 明智方は餓えた兵士たちが逃げ出してくるものと監視の目を厳しくしていたが、二十日以上経っても城から逃げ出してくる者は いない。
不思議に思った光秀は、あちこち様子を探らせたところ摂津国青野の青林寺、八上城の南東にある曽地の四十九院などの 僧らが山伝いに八上城へ兵糧を運び上げていることを突き止めた。怒った光秀は討伐隊を出して青林寺、四十九院を徹底的に 焼き討ちした。そして、兵糧の搬送に加わった僧はもとより、村の人々も容赦なく打ち殺した。その結果、 八上城の兵糧ルートは途絶え、ついに落城となったのである。 現在、曽地奥の一角に首を切られ葬られた人々の霊を祀る首塚がひっそりと祀られている。
ところで、焼き討ちにあった四十九院は、奈良時代の僧行基が曽地の弥十郎ヶ岳の山麓にに開創したという古刹で、 長福寺、真如坊、福山寺、観音寺、池ノ坊などの諸寺が尽く炎に包まれて灰燼に帰した。 そのとき、焼け落ちた長福寺の跡に残された石仏を集めて奉安したという長福地蔵も首塚のすぐ近くの山腹に大事に祀られている。 いまも、山麓には往時の姿を彷彿させる苔むした四十九院の石垣が残されている。 それぞれ、数ある八上城攻防戦のエピソードのひとつとして、また、戦国時代の悲惨な歴史を伝える遺跡として 後世に残したいものである。
長福地蔵背後の山には長福寺跡があり、モリアオガエルの生息地として保護されている。また、 曽地を流れる曽地川ではゲンジボタルの保護が続けられ、「ホタルの里」としても知られている。 ホタルのあらわれるシーズンになると、遠く神戸方面から観光バスで見物に来るなど多くの人たちで賑わいを見せる。 凄惨な戦国史を秘める曽地界隈は、豊かに残る自然と懐かしい風景に出会えるところでもある。
撮影:2009年5月13日