篠山の歴史・見処を訪ねる-西木之部


加茂神社





最近、基礎を修築したという本殿


鳥居の横に可愛らしい御輿が置かれていた

篠山市内より県道140号線を西進すると、宮田を経て国道176号線の長安寺交差点に至る。その途中、西木之部集落に加茂神社は 鎮座している。祭神は味鋤高彦根神 *で、天智天皇の御世に創祀されたという。味鋤高彦根神は大国主神と宗像の三女神の中の多紀理姫との間に生まれた神で、大和国葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社に御鎮座され、そこで賀茂大神(迦毛大神)と呼ばれた。古代豪族鴨族が発祥の地に奉祭した神で、鴨一族が全国に広がり祭った多数の加茂社の総社にあたり高鴨社とも呼ばれる
天智天皇の白鳳二年(662)、唐・新羅連合軍が高句麗を攻撃、天皇は同盟国の百済と高句麗を支援するため兵二万七千を新羅に派遣した。出陣に際して軍は大和高市に集められ前・中・後の三軍にわかれ、後将軍の一人である阿部引田比羅夫の部下に当地出身の兵士が二人いた。二人は迦毛大神に祈り、将軍に従って百済国に渡海した。戦いは白村江の海戦で日本軍が惨敗、百済は滅亡、日本軍は命からがら逃げ帰った。いわゆる古代史上に名高い「白村江の戦」である。命を長らえた二人は、帰途、比羅夫将軍に申し出、朝廷の許しを受けて迦毛大神を故郷に祀ったのだという。その後、天承二年(1132)に至って、村人たちの手で社殿が創建された。慶長十年(1605)、八上領主前田主膳正茂勝が神社を修造し、寛政元年(1789)に再度の修理が加えられ、現在に至ったと伝えている。
ところで、加茂神社といえば、京都の上賀茂神社と下鴨神社が有名だ。いずれも大和から山城の葛野に移り住んだ鴨族が 祀ったものだが、葛城の高鴨社とは別系の神社という。丹波という立地から、当社は京都の賀茂社を分祀したように思われる。 しかし、この地から遥か遠く朝鮮半島に出征した兵士がいて、かれらが帰国に験のあった味鋤高彦根神を遠く大和国から 勧請したものなのである。見たところ村の小さな神社に過ぎないが、その歴史は遥か古代に発しているといえよう。
-------
* あじすきたかひこねのかみと読み、「鋤」の字は「金偏に且」と書くのが本来の漢字。日本書紀には味耜高彦根神と 表記されている。