扉・蛙股に「三つ葉葵」の紋が据えられている【右】
篠山藩の成立を、篠山城が完成した慶長十四年(1609)とすれば、初代の篠山藩主は松井松平康重ということになる。康重は藩政の基礎固めに専念し、元和五年(1619)、康重は和泉国岸和田に移封となった。その後、篠山藩主は松平信吉、松平忠国と変わり、忠国は検地の実施や城下町の整備、社寺の建設、文化発展に尽力した。慶安二年(1649)、忠国の播磨明石への転封により、摂津高槻藩より形原松平康信が五万石で篠山に入部してきた。
康信は検地を実施して郷村制度を確立するなど、篠山藩政を確立した。康信の孫信庸は名君として知られ、民政に意を用い、文化興隆に尽力し、京都所司代・老中も歴任して篠山藩の全盛期をもたらした名君として知られる。ところが、その子信岑は暗愚な人物で、飢饉に苦しむ領民に苛酷な税を強い、百姓一揆を誘発させるなど失政を繰り返した。その結果、延享五年(1747)、丹波亀山に移されてしまった。信岑と入れ替わりで、篠山藩主となったのが青山氏である。
いま、篠山市内に残る形原松平氏時代所縁のものとして、西浜谷にある曹洞宗寺院-泉湧山長源寺の太師堂が知られる。総ケヤキ造瓦葺、身舎の周囲に1.5m幅の縁を巡らせた二間四方の建物で、扉をはじめ蛙股や内陣に「三葉葵」の紋が配されているのが特徴である。そもそもは、松平康信が黒岡春日神社の神宮寺である栄松寺に建立した徳川家光の位牌を安置する御霊屋で、形山松平氏が亀山に転封後、栄松寺の護摩堂となった。そして、幕末の嘉永三年(1850)に長源寺境内に移築され太師堂と呼ばれるようになった。江戸時代中期の形原松平藩政当時の建物として、いまは残っていない栄松寺の遺構としても貴重なものである。
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