伝鷲尾三郎屋敷跡(山麓に墓所)を遠望
篠山城址の北方に鎮座する大売神社、そのすぐ北方にある鷲尾集落の山麓に鷲尾三郎の供養塔がある。鷲尾三郎は源平時代の人物で、寿永三年(1184)、三草山の戦いで平家軍を破った源義経軍を一ノ谷まで案内したことで知られる。義経軍は平家が陣を張る一ノ谷の絶壁鵯越を駆け下り、源氏大勝のきっかけを作ったことは『平家物語』に詳しい。合戦後、義経は鷲尾三郎への褒賞として、みずからの諱(いみな)の一字を与えて「義久」と名乗らせたという。以後、鷲尾三郎義久は義経の忠実な郎党として行動、義経が兄頼朝との不和から奥州に逃れたとき、最後までそれに従い衣川館の戦いで義経に殉じたと伝えられている。討死した三郎義久の首は、葦の矢となって故郷に飛び帰ったといい、村人達により懇ろに葬られ供養が続けられてきたのだという。
ところで、『平家物語』によれば、鷲尾三郎は地元の猟師の子と言われている。しかし、道を知っているというだけで、ただの猟師の子が義経軍を丹波から平家が陣取る一の谷まで案内するのは難しいのではなかろうか。おそらく、三郎は六甲山から丹波にかけた山岳地帯を支配下においた武士団鷲尾党の一人であったと思われる。義経は武士団鷲尾党を味方につけたことで、三草山の戦いに勝利し、さらに一の谷の合戦に大勝を得ることができた、と考える方が自然ではなかろうか。
鷲尾三郎の供養塔がある一帯は、鷲尾氏の屋敷跡といわれ、たしかに武士が屋敷を構えるのにふさわしい立地だ。三郎の子孫は森本を名乗り、近世には庄屋を務めたとのことだ。他方、神戸市北区にも鷲尾氏の屋敷跡があり、そちらにも子孫の方がいらっしゃるという。「いずれが本物か」などいう詮索は野暮な話であり、それぞれが鷲尾三郎を祀ってきたことはまことに尊い話といえよう。
写真:北神戸山田町に残る伝鷲尾三郎屋敷跡。箱木千年家のすぐ近くにある。
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