秋の例祭で賑わう境内
神社前の殿垣内の風景、右方の道路を下りると国道に出る
中世、京都東寺領の荘園であった大山荘の一角、三方を崖に囲まれた池尻谷の入口に池尻神社は鎮座している。御祭神は木花開耶姫命・大山祇命・少彦名命・素戔鳴命で、明暦元年(1655)に現在地に遷座し、大山村六社大明神の一に数えられた。毎年の秋祭りに奉納される人形狂言は、宝暦三年 (1753) に徳永村の庄屋、 中沢伝左衛門近義がつくり、 翌年に明神講の手で奉納されたものである。約二百五十年を経たいまも継続され、江戸末期の農村文化の高さを伝える貴重な文化遺産である。
池尻神社には、「沢田の大蛇退治」という昔話が語り伝えられている。むかし、大山のある里に年老いた両親と美しい娘が住んでいた。その村では、毎年秋祭になると、十五歳になる前の少女を人身御供に捧げねばならなかった。ある年のくじびきに、老夫婦の娘があたり、両親はたいそう悲しみ、そろって氏神の池尻神社に御願いにいった。そんなあるとき、池尻神社に都から来た若い武士が参拝に立ち寄った。この武士は氏神から「桜の木の下に住むと言う娘と結婚する」とのお告げを受けて、「相手探し旅」の途中だった。池尻神社にもお告げの相手を聞こうと参り、一心に神様にお祈りをしていたが、旅の疲れもあってうたた寝をしてしまった。その夢の中に人身御供に代わって桜の木が現れ、神の声が聞こえ、宝剣が桜の木の上に降りて来た。はっとして目が覚めると、桜の木の下には現実に宝剣が在った。その宝剣をおしいただいた若武者は、娘を大蛇の妖怪から守り抜いた。その娘こそお告げのあった嫁となる女性であり、娘を妻とした武士は村に住みつき、「子孫が栄え、村もたいそう繁栄した」というお馴染みのパターンの妖怪退治話であるが、はなしの中に出てくる桜の木は木花開耶姫命の化身であったと思われる。池尻神社の本殿を見ると桜紋が据えられているが、これは木花開耶姫命を祀ることと、さきの昔話にちなんだものであろう。
鎌倉時代、関東御家人の中沢氏が大山荘に地頭として入部してきたが、はじめに居館を構えた地は不明とされていた。しかし、大山荘の発掘調査などによって、池尻神社の前方に広がる殿垣内こそ、中沢氏の屋敷跡と推定されるようになった。たしかに殿垣内は三方を崖に囲まれたる台地で、武家が館を構えるのにふさわしい天然の要害地であること、中世の文書に「池尻東殿」「地頭東殿」といった人物名が見られることから、まず中沢氏の屋敷跡とおもわれる。何よりもその地名が、中世武家(中沢氏)が屋敷を構えたことを物語っているといえよう。
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