篠山の歴史・見処を訪ねる-下小野原


二老山和田寺





仁王門と鎌倉中〜後期の作と推定される金剛力士像



丹波多紀郡(現篠山市)の古刹の開創は、そのほとんどが法道仙人によるものである。和田寺も大化二年(646)、法道仙人が和田寺山頂上に一宇の堂を建立されたことに始まると伝えている。弘仁十一年(820)、天台宗京都妙法院末となり、以後、おおいに繁栄した。しかし、源平合戦の戦乱にまきこまれて、寿永三年(元暦元年=1184)、一山ことごとく焼失した。文治元年(1185)、播州清水寺二摎撓「和尚により再建され二搦R東光寺と称した。その後、山頂での伽藍維持が困難となり、康応元年(1392)、僧良海が伽藍を現在地である和田谷に移し、本堂を再建、寺号を二老山和田(わでん)寺と改め現在にいたった。
武家の篤い信仰を受け、永正年中(1504ごろ)に将軍足利義澄が伽藍修理のうえ田園を寄進、戦国時代、丹波を支配した波多野秀治も祈願所として庇護を加えた。また、幕府管領職にあった細川政元・細川高国らの文書や後水尾天皇が寄進された仏像などが伝来、中世の兵庫丹波における貴重な史料群となっている。明治以後、次第に衰退の途をたどり、現在は本堂・庫裏、仁王門が残るばかりである。さらに、近年になって大規模な霊園工事が行われ、かつての古刹らしい雰囲気が失われてしまったことは、まことに残念というしかない。