篠山の歴史・見処を訪ねる-宮田


光照寺の宝篋印塔








宝篋とは仏説(宝経)を蔵する「はこ」のことで、印塔は塔婆の一形式であり内部に『宝篋印陀羅尼』を納めたことから宝篋印塔とよばれるようになった。「陀羅尼とは、一切如来の全身舎利の功徳を集めた呪であって、四十句からなる。陀羅尼を書写し読誦するか、陀羅尼を納めた宝篋印塔を礼拝すれば罪障を滅し、三途の苦を免れ、寿命長遠なることを得る」という。鎌倉時代中期から江戸時代にかけて、日本各地に造立された。宮田の摂取山光照寺にある宝篋印塔は高さ216cm、市内最大のもので鎌倉時代後期のものと考えられ、県内でも古いものの一つという。惜しいことに灯篭として使用するために、後世に塔身がくり抜かれ、塔身に施されていた装飾が判別できない。
光照寺は豪商山本彦兵衛が宮田村大蔵谷に建立した浄福寺が荒廃、のちに光照寺として再興されたものである。誓願寺の開山で、晩年、浄福寺に隠居した覚山天誉上人は足利義輝の嫡男であったという。寺の裏山にある古墓地には、上人の墓石が歴史のロマンを秘めて静かに佇んでいる。