石風呂を覗くと黒く煤けていたが、まさか往時の名残か・・・
本堂に続く参堂の石碑に天台宗の宗章「3ツ星(三諦章)」が見られる。
宮田交差点から鼓峠に向かう途中にあにある五坊池の手前にあり、天台宗比叡山延暦寺の末寺である。本尊は薬師如来、用明天皇(在位585〜587)の時代、聖徳太子の開基によると伝えられる。のちに法道仙人によって中興され、大化年間(645〜650)には三十五坊を数えたという。貞観年間(627〜49)、宮田荘が摂政「藤原良房」の所領となったとき、当寺を祈願所としたことから荘園の名をとって「宮田山」と号するようになった。
隆盛を誇った福徳貴寺であったが、戦国時代の永正五年(1508)、細川氏の内訌に関わる福徳貴寺合戦で堂宇は焼失してしまった。以後、しばらく衰退していたが、江戸時代の元禄四年(1691)、比叡山の僧「円重法印」によって再興された。現在の本堂は、安永九年(1780)に御在所岳より移築されたものである。明治中期までは三ヶ坊があったが、いまは、本堂および内佛庫裏一ヶ坊をもって福徳貴寺と称されている。いまも、背後の五在所山には多くの坊跡が残り、往時の繁栄ぶりを伝えている。
福徳貴寺には、龍女が残したという鱗が寺の秘宝として伝えられている。これは、祐盛法印が滝壺に住む龍女を成仏させたことへの返礼として贈られたもので、天福・地徳・人貴の三徳分を表したもので、福徳貴寺の寺名はこれに拠ったものという。龍女伝説の地には不動尊(倶利迦羅明王)が祀られ福徳貴寺の奥の院であった。また、山門をくぐったすぐ左手に、横約二メートル、縦一メートル、深さ八十センチほどの大きな石を刳りぬいた石風呂がある。かつて本尊の薬師如来にちなみ、薬風呂として用いられたものという。
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