戦国時代、丹波の戦国大名として八上城主に割拠した波多野秀治は、明智光秀の丹波攻めに抵抗して滅亡した。篠山市西部の味間集落に、秀治の子孫と伝える家がある。天正七年(1579)八上城落城のとき、秀治の遺児で二男の甚蔵は乳母に連れられて、味間に逃れてきた。そして、文保寺に入ったが、のちに還俗して波多野源左ヱ門と名乗り居を構えた。その後、篠山藩主・松平山城守忠国に仕えた源左ヱ門は、味間・大沢・網掛・小野原・市原・木津・黒石の七カ村の代官に任命されたのである。
子孫の家には立派な長屋門が残り、波多野氏の家紋「丸に抜け十字」が据えられている。後方の山には無念の死を遂げた秀治を祀る御霊神社、尾根を隔てた林の中に波多野秀治の墓碑がヒッソリとたたずんでいる。
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