秋の例祭で賑わう追入神社
神社が鎮座する追入集落は、古来より但馬・氷上方面と摂津を結ぶ重要な街道筋で、東の福住、南の古市とともに宿駅として大いに繁栄した。幕末には本陣と宿屋が二十軒もあり、明治以後も但馬牛を神戸に運ぶための牛宿としてにぎわった。「追入」という地名は、山地の奥まったところにちなむとも、修験者が笈を負って往来したからとも、追入神社の伝承に関わるともいわれる。
「むかし、一人の神様が鐘を盗んで逃げ、それを別の神様が追っかけた。鐘を持った神様は峠を越して氷上郡の小倉まで走ったところで、追う神様は坂の下まで来たときに朝を迎えた。二人の神様は、それぞれ朝を迎えた場所に鎮座し、追っかけた神様を祭る神社を「追手神社」という。小倉の神様は刈野神社といい、鐘を持って越えた山を「金山」、また越えた坂を「鐘が坂」というようになった」というものである。
地名の由来の一つになったといわれる追入神社は、集落北方の山中に祀られていた聖権現と愛宕社を明治四十一年(1908)に合祀し、大正元年(1912)に現在地に移したものである。祭神は聖権現の熊野神、愛宕社の迦具土神、稲荷神の宇迦御魂神である。のちに刈野神社も追入に迎えられ、いまの「追入」神社になった。(多紀郷土史考より)神社の南すぐのところに、明智光秀が築いた金山城址への登り口がある。
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