篠山の歴史・見処を訪ねる-大熊


笛の薬師



笛吹山(右手)、太鼓山を遠望


笛の薬師本堂  内陣を見る


手前の地蔵さまよりお堂を見る

篠山は源義経に関する伝説の多いところである。実際、『玉葉』や『吾妻鏡』などに、寿永三年(1184)二月、 義経軍は播磨の三草山に向かって丹波路を駆け抜けていったことが記されている。そして、真南条の鞍懸山、 古市から今田に通じる不来坂、大熊の笛吹山などの伝説が語り継がれている。また、義経の郎党の一人鷲尾三郎は、 大熊北西にある鷲尾の出身といわれ、いまも三郎の墓といわれる古い供養塔が鷲尾に残っている。
三草山の戦いで平家の軍を破った義経は、そのまま鵯越に向かい、有名な逆落としで源氏に大勝をもたらした。 さらに、屋島の合戦に勝利、壇ノ浦の合戦において平家を滅亡に追い込んだ。まさに源氏の勝利に貢献した 義経であったが、後白河法皇の暗躍などもあって、兄頼朝との間に円満を欠くようになった。ついには、 頼朝と対決するようになった。しかし、武運つたなく追われる身となった義経は、鷲尾三郎の手引きもあって 丹波に隠棲した。義経を迎え入れ援護したのは御嶽の修験者たちで、しばらく丹波の地で平穏な日々を過ごしたらしい。 ある日、鷲尾三郎の案内で大売神社に参拝した義経は、その東方にある「笛の薬師」にもお参りし、 それぞれ武運長久を祈った。
笛の薬師は、大同年間(806〜10)、円仁が病気回復を祈願したところ、「丹波国大熊の土中に埋められている薬師如来を迎え奉れ」との夢のお告げがあった。早速、丹波の大熊に下った円仁は、薬師如来を探して廻ったところ、笛の音が聞こえ土中より紫雲が立ち上るところがあった。そこを掘ったところ、果たせるかな薬師如来が現われた。早速、一宇を建立して薬師如来を祀ったところ病はたちまち平癒したという。一宇は笛吹山瑠璃寺と名づけられ、永保元年(1801)、丹波国司であった大江匡房がこの山を詠んでいる。

 足引の 笛吹山の 松風に
    万代
(よろずよ)の あき しらべこそすれ

さて、笛の薬師に参った義経は、愛用の笛を小枝にかけておくと熱心に薬師如来に祈った。すると、風のいたずらか笛が突然に鳴り出し、それにあわせて向かいの山から太鼓の音が聞こえてきた。それがあって、以後、笛吹山、太鼓山という名がついたと語り継がれている。その後、義経は丹波をあとにして奥州へと流浪の旅を続け、ついに奥州平泉において討ち取られた。どうやら、義経の願いに対して、笛の薬師さまの験はなかったようである。
取材/撮影:2009年7月15日