篠山の祭り


デカンショ祭


京都から姫路に通じる国号372号線の篠山を通る部分が「デカンショ街道」と 名づけられているように、「デカンショ」は丹波篠山の代名詞となっている。その起こりは「ヨーオイヨーイ、デッカンショ」で 知られる「デカンショ節」であり、さらに、それを超有名にしたのが篠山夏の一大ページェント「デカンショ祭」だ。 デカンショ祭の起源は意外に新しく、第二次大戦後の昭和二十七年の夏から始まった。それまで、旧篠山町内の 各地域で行われていた盆踊りを一つに統合して、篠山町の総盆踊りとして開催されるようになったものである。 祭りは盆の15・16日の二日間開催され、メーンイベントの総盆踊りだけではなく、 小中高生のパレードや歌手のライブなども開かれる。



石垣に祭りの幕 ・総踊りを前に連の皆さんが集まってくる ・市内点景、市内の小学生製の提灯群



総踊りが始まる ・木造の櫓と踊り子たち ・ライトアップされた石垣



愛嬌を振り撒くマルイノ ・踊るデカボウ ・花火の打ち上げ ・祭り一色の市内


町中に吊るされた提灯に灯が入ると、お馴染みの「ヨーオイヨーイ、デッカンショ」の掛け声で総盆踊りが始まる。 連とよばれる踊り手に交じって帰省した家族連れ、観光客の人々が踊りの輪に加わり、踊りは次第に熱気を帯びていく。 また、篠山城址西の曲輪に軒を連ねる夜店をそぞろ歩きながら、盆踊り、花火などを楽しむ人々も増え篠山城址一帯は祭り一色となる。 今年は篠山城築城四百年の節目の年にあたり、国内最大級の木造やぐらが組まれ、篠山のキャラクタであるマルイノ、 デカボウ、イノッキーたちもダンシング、一層の華やかさに彩られた。
デカンショ節といえば、丹波篠山山家の猿が 花のお江戸で芝居する」とか「デカンショデカンショで半年暮らす  あとの半年ねて暮らす」という歌詞が有名だ。いかにものんびりとした山国の風景が思い浮かぶが、 明治時代までは「ねて暮らす」は「泣き暮らす」と歌われていたという。むかしの篠山は譜代藩であったことから、 歴代の藩主は幕府の要職に就くものが多く、在府の諸費用は領民に重い年貢として課せられた。それもあって、 多くの農民が丹波杜氏として冬の間は出稼ぎに行き家計を支えた。いま、篠山の町おこしの目玉となっている 「デカンショ祭り」には、丹波篠山で生きた先人たちの喜怒哀楽がこめられている。また、デカンショ節の歌詞には多くの替え歌があり、 それぞれの時代の庶民の歴史と思いも詰まっている。
そもそもデカンショ節とは、江戸時代より多紀郡一帯で歌われていた「みつ節」が源流といわれ、 明治時代になると全国的に愛唱されるようになり、大正時代にはデッコンショ節などとも呼ばれていたようだ。 その語源は、丹波杜氏として出稼ぎに行っていたことから「出稼しよう」が訛ったものとか、鳳鳴出身の学生たちが、 デカルト、カント、ショペンハーウエル等の哲学者の名の頭文字を取ったものであるとかいわれている。 他にも掛け声の「ドッコイショ」が変化したものだとか、方言の「デゴザンショ」から訛ったなど諸説があるが、 言葉そのものに特別な意味はなく囃し言葉の一つと考えられている。
・街の其処彼処に貼られたデカンショ祭りのポスター 


【撮影:2009年8月16日】