篠山の歴史・見処を訪ねる-89


合戦場跡と筱見観音








応仁の乱に際して東軍の総帥細川勝元は、丹波守護代内藤元貞らを京に招集した。一方、西軍の山名宗全はそのすきをねらって、丹波への進攻を図った。留守を守る内藤則繁は天田郡夜久野において山名軍を迎撃したが、多勢に無勢、敗れた丹波勢は多紀郡に引き上げた。しかし、山名勢の追撃を受け、村雲村筱見付近で全滅に近い大敗北を喫した。この戦いを「丹波村雲合戦」といい、その激戦の地は合戦場と呼ばれた。それから五百年の時を経た昭和四十九年(1974)、西宮の「百万石酒造」が合戦場に工場を建てたが、往事の戦死者の供養と除災のために聖観音立像を建立し小公園を作ったのである。