篠山の歴史・見処を訪ねる-73


山陰道の小野駅跡








小野新の交差点を篠山方面に向かって小さな峠を越えたあたり、平安期に制定された『延喜式』による山陰道の小野駅家があったという。古代、三十里ごとに置かれた駅は、五〜八頭の駅馬が置かれ、運営のために駅田を領有して官用の駅使のために休息・宿泊、乗り継ぎの便宜を図っていた。当時の山陰道は京の七口の一つである丹波口を起点に、桂川西方の樫原を経由して老の坂を越え丹波に入った。そして、丹波国には大枝、野口、小野、長柄、星角、佐治に駅馬が置かれていた。
その後、山陰道は亀岡から園部、三和 、福知山、夜久野を経て但馬国へとつながる道筋となったため、篠山を通っていたかつての山陰道は篠山道と呼ばれるようになった。駅制が廃れると、福住、篠山、追入、柏原、佐治などの宿がおかれた。


小野の地は、古くは小野氏の領地で、文永年間(1264〜75)ごろには近隣の五、六ヶ村とともに小野荘として京都加茂社領であった。小野駅の南方には荘園領主小野氏の屋敷があったといい、その跡には西光寺が建てられ栄えていたが、度々の兵火等によって廃滅してしまった。現在、寺跡と思われる小さな墓地の一角に室町時代に建立された宝篋印塔が残っており、遠い時代の名残りを伝えている。