篠山市街の東北に位置する東本荘集落の東部にある前方後円墳で、南北に車の両輪のように
陪塚があることから車塚古墳と呼ばれるようになった。その規模は全長140m、後円部の
径80m、前方部幅90mという丹波最大(県下で二番目)のもので、築造時期は古墳時代中期
(五世紀)といわれる。周濠が周囲に巡らされた姿は堂々として威厳があり、
東方の小山上に設けられた展望台からの眺めは圧巻である。古墳のある東本荘一帯は
丹波でもはやくに開発されたところであり、古代には山陰地方に通じる幹線道が通る交通の
要衝であった。車塚古墳の西方にある新宮古墳は直径52.5mの規模を有する丹波最大の
円墳で、古代の篠山市街北方の山麓には一大権力が存在していたことを示している。
被葬者は『日本書紀』にいう崇神天皇の頃、北陸、東海、西道、丹波に派遣された四道将軍のひとり丹波道主命ともいわれる。丹波道主命は『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王と記され、その系譜をみれば開化天皇の孫で、景行天皇の外祖父となっている。その関係からか宮内庁より陵墓参考地に指定され、発掘調査はもとより立ち入ることも許されていない。
明治二十九年(1896)に後円部が発掘されたとき、埋葬施設は竪穴式石室に長持形石棺が
収められ、大阪や奈良の大王陵と同じものとして注目された。副葬品として甲冑などが発見
され、出土品の一部が京都大学に保管されている。長持形石棺は開けられることはなく埋め戻されたため、
被葬者がどのような人物であったのかは分からないままである。丹波道主命の陵墓とは
思われないが、古墳時代中期、西丹波を治めた国造級の豪族が葬られたものであることは
想像に難くない。石棺の中には、いまも古代のままに被葬者が眠っているのかと思うと、
遠い古代へと誘われる心地がしてくる。
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