篠山市の東北にある東本荘集落の北部山麓にある曹洞宗の寺院で、境内は杉やカシの大木におおわれ、
秋の紅葉の素晴らしさは格別である。その創建は、寺伝によれば南北朝時代後期の文中三年(応安七年=1374)に
天鷹祖祐禅師によって開かれたものという。
開山の天鷹祖祐は、延元元年(建武三年=1336)加賀に生まれ、俗姓波多野氏であった。家祖の波多野義通は
曹洞宗の高祖道元禅師の庇護者として、永平寺建立に尽力した人物として知られている。武門に生まれた天鷹は
武人として戦場を往来したが、三十七歳のとき忽然と猛省するところがあり武具を擲ち出家、相模国から京へと旅を
重ねた。そして、摂津国と丹波国の境に位置する有馬郡仲庄母子の永沢寺に住む通幻寂霊和尚のもとへとたどり
着いたのであった。通幻のもとで寝食を忘れて修行に励み、ついに大悟した天鷹は師のもとを辞して丹波村雲に
庵をむすびさらに修行に励んだのである。この村雲の庵こそ、のちの洞光寺に他ならない。その後、天鷹は尾張に赴き、
曹洞宗の普及につとめた。そして、弟子三千余人、門葉三百八十余ヶ寺を数えるに至り、
曹洞宗発展に大きな功績を残したのであった。
洞光寺は多紀・氷上郡最初の曹洞宗寺院で、足利将軍家や丹波守護細川氏の崇敬を集め丹波三寺の一となった。
江戸時代には十万石の格式が与えられ、末寺は五十三ヶ寺にも及んでいる。天正の丹波兵乱以来、たびたび火災に遭って
同宇や寺宝を失ったといい、現在の本堂は昭和四十九年に再建されたコンクリート製のものである。
とはいえ、土塀をもった南門を潜り、苔むした石段を登っていくと、禅寺らしいキリッとした空気が心地よい。
菖蒲池越しに見える高欄つきの回縁をもった楼門、その古寂びた佇まいが寺格の高さを物語っている。
ところで、南門のわきの石柱を見ると「顯彰曹洞宗大本山総持寺元輪番地」と刻まれている。曹洞宗といえば
永平寺が本山と思われるが、元亨元年(1321)、道元の法孫にあたる瑩山紹瑾禅師が能登に開いた諸嶽山總持寺が
永平寺と並ぶ曹洞宗の修行寺として栄えた。瑩山は多くの弟子を育成したが、そのあとを継いだ峨山韶碩はさらに
多くの弟子を育成した。俊秀の多さに峨山は三代目を決めることができず、後継候補として五人の弟子を絞るのに
精一杯であった。その結果、五人の弟子が開いた寺院(五院)の住職が、輪次に総持寺の正住となることで
話がまとまった。これが「輪番」の始まりで、住持職を輪番制とする寺院を輪番地と呼んだ。五人の弟子の一人が
通幻寂霊で、その法嗣の天鷹祖祐が開いた洞光寺も輪番地に数えられたのであった。篠山市内では、
奥畑の太寧寺も元輪番地であった。總持寺の輪番制は、やがて名誉職化し明治維新後に廃された。
いまは山あいの小さな寺に過ぎないが、洞光寺は我が国曹洞宗の歴史に大きな足跡を刻む寺院であった。
境内の一角に腰掛けて、春から夏の新緑、秋の紅葉などを愛でつつ、静かなひとときが楽しめるところである。
・2008-03/22 →06/13 →12/06 →2009-07/09 →11/10・12
天鷹祖祐の出自に関して「寺伝」では加賀の富樫氏の出自となっているが、年代的に疑問がのこるものである。
ここでは、瀬戸の正眼寺に蔵されていた『歴代住山記』の「俗姓藤氏、賀陽人、父者大織冠十五代孫波多野
次郎義通六代孫又次郎実親後裔也」とある記述に拠った。
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