篠山南部、市内でも最も山深いところにある集落の一つ後川上に鎮座している。摂津池田から
丹波綾部に通じる国道173号線より籠坊温泉を経て、県道12号線に合流する手前の左手山麓に
春日神社の大鳥居が見える。鳥居に架かる扁額を見ると「龍神春日社」とある。
古来、
農民にとって稲作の豊凶は最大の関心事であり、春日大神とともに雨を降らしてくれる龍神を
祀ったものであろう。鳥居をくぐり古寂びた参道を本殿へと向かうと、原生林を思わせる社叢が広がり
、やがて谷川を見おろすように組まれた石垣の上に社殿が見えてくる。まさに、
いまにも龍神が立ち現われるような荘厳な雰囲気である。苔むした石段を登り、長床をくぐり、
清浄なたたずまいの境内へ。本殿は覆い屋に囲まれ、直に見ることはできないのが残念だ。
本殿横の山腹にある大峯社に登って何気なく覆い屋を見ると、継ぎ目に沿って無数の穴があいている。
なんとも不思議な光景で、一説にはキツツキが空けたものといわれるが、実際のところは謎である。
ところで、神社の鎮座する後川は「シツカワ」と読み、篠山に源を発して遠く大阪湾に注ぐ武庫川の支流、羽束川の上流に位置する山間の集落だ。後川の「シツ」は「しり」が転訛したもので「末」をあらわし、羽束川の最上流(川の末)にあたることを示す地名といわれる。川の上流を「後川上」、下流を「後川下」、上と下の間の間を「後川中」とよんでいる。後川の地は天平二十年(748)につくられた奈良東大寺の最も古い荘園で、『東大寺要録』の「諸国諸荘田地」に「多紀郡後川荘田廿八町三段二百五十六歩」とみえ、丹波国で最も早く成立した荘園として知られるところだ。立荘後、東大寺領として続き、嘉応二年(1170)十二月、藤原成経が、次いで承安四年(1174)頃にも藤原盛綱が後川荘の領家となった。それが機縁となって、天福元年(1233)、藤原氏の祖神である奈良春日大社の御分霊が勧請され原谷の奥に社殿が営まれた。しかし、集落から遠かったこともあって、上村と中村にそれぞれ移されて現代に至った。
一度、山の霊気を感じながら、本殿覆い屋に空けられた無数の穴の謎解きに頭を捻ってみられてはいかがだろうか。
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