篠山の歴史・見処を訪ねる-62


波々伯部神社と日置の一里塚








篠山市街の東方、宮ノ前に「波々伯部(ほうかべ)神社」は鎮座している。祭神はもと祇園天神・牛頭天王で、現在は素盞男尊ほか二神が祀られ、「丹波の祇園さん」として親しまれている。創建に関しては諸説があり、古くは白鳳六年(680)本地薬師如来が勧請されたことに始まるという。一方、貞観年間(859〜877)に創建され、承徳二年(1098)に堀河天皇が波々伯部村の田を京都の祇園社(八坂神社)へ寄進し荘園・波々伯部保となり、祇園社の分霊を勧進したことに始まるともいう。しかし、京都の八坂神社に残った文書から、承徳二年(1098)、波々伯部村の田堵(有力農民)十三名が二十五町八反余の田地を八坂神社に寄進し、荘園・波々伯部保となり、祇園社を勧請したとあるのがそもそもの始まりと考えられる。
荘園の領所は八坂神社の執行がつとめ、現地の経営は下司職に任じられた波々伯部氏が当たった。波々伯部氏が記録にあらわれるのは承久三年(1221)の関東御教書で、新補地頭の濫妨を六波羅に訴えた下司波々伯部盛経である。盛経は下司職を安堵され、波々伯部氏代々は下司職を相伝した。南北朝時代になると、祇園社と波々伯部氏のい間に争いが起こり、下司信盛は宮田庄の波々伯部為光とともに波々伯部保を押領している。また、為光は戦功によって、足利尊氏から波々伯部保を賜わり、神社の東方にある辻の淀山に城を築いたという。戦国時代、八上城に拠って丹波の戦国大名になった波多野氏も神社に厚い保護をあたえ、波多野氏傘下に加わった波々伯部氏は八上城の東口守備の任をになった。やがて天正四年(1576)、明智光秀の丹波攻めが始まると、波多野氏はこれに抵抗、兵火により社殿は焼失した。その後、丹波亀山城主となった豊臣秀勝によって再建され現在に至った。
「丹波の祇園さん」の祭礼は、毎年、八月の第一土・日に行われ、氏子の村から八台の山車が勇壮な宮入を繰り広げる。 また、「胡瓜山」と呼ばれる曳山では「デコノボウ」と呼ばれる操り人形を奉納する「おやまの神事」が行われる。 この神事は極めて貴重なものとして、兵庫県の無形文化財に指定されている。 また、室町末期、 延徳二年(1490)の銘をもつ青銅の鳥居の右手には日置の一里塚がある。 江戸時代、篠山藩は大手門から京街道に沿って、一里ごとに土を盛り松を植えて道標(一里塚)とした。日置のものは、八上の一里塚の次ぎ、二番目の一里塚である。

写真:日置の一里塚