日置小学校の隣に鎮座し、応神天皇、上筒男命、天児屋根命の三神が祭られている。その創建は、承平三年(933)、京の石清水八幡宮より末社五十社とともに分霊されたことに始まると伝えられている。五十社にちなんで「五十之宮いそのみや」と呼ばれるようになったとも、曽地川の水辺すなわち磯の守護神ということから「磯之宮」と呼ばれるようになったともいわわれる。
建武二年(1335)、京の戦いに敗れた足利尊氏は都から脱出、丹波から兵庫に抜けて九州へ落ちていった。「太平記」には、その途中で曽地の土豪内藤入道道勝の館に寄った尊氏は、源氏の氏神でもある八幡神社へ戦勝祈願に参拝したと記されている。そのとき、社僧の勝心はお茶菓子として榧の実を差し出した。尊氏は榧の実の皮を剥いて神前に捧げ「天下平定、武運長久、願望成就と願いをかなえて下さるならば、この榧の実が大きく育って、皮の無い実をできさせ給え」と願いを込め、一粒を境内に蒔いた。その一粒は芽を出し、世界でただ一本の「裸榧」の大木に生長した。一方、九州で再起を果たした尊氏は京を制圧して足利幕府を開くと、磯宮に田畑七十町歩を寄進して感謝の意をあらわしたと伝えられている。その後、領主や武将の信仰を集め、戦国時代には八上城主波多野秀治が崇敬を寄せ保護を加えた。しかし、天正七年(1579)、明智光秀の丹波攻めの兵火によって焼失した。江戸時代になると、代々の篠山藩主の加護を受け、寛文十二年(1672)には社殿が建立された。
磯宮八幡境内に大きく育った「裸榧」は、大正時代に国の天然記念物に指定された。他方、かつての神宮寺(福乗坊)に祭られていた四天王像のうち、持国天立像と多聞天立像が国の重要文化財に指定されている。また、護摩堂には京都の仁和時開創の宇多法皇をはじめ、歴代の法名が書かれた立派な位牌が祭られている。さらに、大日如来や阿弥陀如来、不動明王等の仏像が大切に祭られるなど、神仏混交時代の名残が色濃く残っているのもこの神社ならではの特徴だ。
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