篠山の歴史・見処を訪ねる-45


丹波与作誕生の地





ゆるぎ地蔵さん

丹波与作とは、江戸時代はじめの寛永年間(1624-44)に篠山熊谷の在に生れた百姓の倅といい、デカンショ節に登場する「丹波与作は馬追いなれど、今じゃお江戸で二本差し」で知られる。与作は馬追いをしながら文武両道の修業に励み、やがて江戸に出て武士になったという伝説の主人公でもある。近松門左衛門が、心中天網島等とともに「丹波与作待夜小室節」などとして浄瑠璃にし、大評判をとったことから有名になった。しかし、近松の浄瑠璃は元の伝説とはかけ離れた内容となっている。
与作誕生地のかたわらに「ゆるぎ地蔵」が祀られているが、これは、吉田冠子と三好松洛が近松の「丹波与作待夜小室節」を改作した時代物人形浄瑠璃「恋女房染分手綱」にちなんだものである。すなわち、「恋女房染分手綱」の中で、与作の一子三吉と丹波由留幾家の乳母で実母の重井との別れの場面から、「小安地蔵」として祀られるようになったもので、いわゆる後付けされたものだ。
いずれにしろ、丹波与作京都亀岡方面から天引峠を越え、篠山へ出て、さらに柏原から福知山へ向かう旧山陰道の馬方のひとりがモデルになったものであろう。馬方が歌っていた「馬方節」は歌詞だけが残っていたものに、曲が作られて歌われるようになったのが「丹波馬方節」で、西日本では数少ない「馬方節」の一つである。