御輿の上の鱧飾り と 鱧切祭り
戦国時代、小林氏が拠った沢田城址の北方山麓に鎮座する古社で、祭神は応神天皇・春日大神・事代主命と国魂神と同姫神および元沢田城主小林近江守の神霊である。創建年代は不明だが、境内の「不動堂」に文治2年(1186)銘の棟札が伝来していることから、平安末期には存在していたことは間違いない。沢田一帯は、弥生時代の末期頃から古墳時代にかけて沼沢地であったものを、先人が農耕地に開拓して沢田と呼ばれるようになった。沢田八幡の背後の森のなかにある沢田八幡古墳は、開拓に力を尽くした先祖を葬ったもので、やがて神社が祀られるようになったと思われる。
南北朝時代には後醍醐天皇が勅使を派遣され、将軍足利氏をはじめ丹波守護山名氏・細川氏などの武将が崇敬を寄せた。さらに、三岳修験道の隆盛とあいまっておおいに栄えていたようだ。やがて、沢田城主の小林近江守が源氏の氏神である八幡大神を勧請して、沢田八幡神社とよばれるようになったという。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが始まると、小林一族は八上城主波多野氏に属して明智軍に抵抗した。しかし、八上城周辺の城はつぎつぎと陥落、天正七年に沢田城も落城、そのとき沢田八幡も兵火により焼失した。その後、江戸時代はじめの寛永九年(1632)に篠山城主松平山城守忠国が本殿を再興し、城の鬼門の鎮守とした。以来、歴代の篠山藩主が祈願所として寄進と保護を続けた。
沢田八幡神社の秋の祭りに奉納されるのが、多紀三大奇祭の一とされる「鱧切り神事」である。かつて沼沢地であった沢田を農地化するに際して遭遇した災いを大蛇にたとえ、その大蛇を鱧に見立てて退治するというもので、豪快と滑稽が混在したまことに珍しい神事だ。民俗学者柳田国男も『日本の祭り』の中で特殊神饌の一例として取り上げている。
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