篠山の歴史・見処を訪ねる-40


沢田城跡





毘沙門堂方面(左)、赤池方面から出羽丸を見る


堀切跡と八上城址本丸から沢田城址を遠望(右)

篠山中学校の北西にある小林寺後方の山上にあり、八上城主波多野氏の部将であった小林近江守長任が天文年間(1540ごろ)に築城したと伝えられている。城主の小林氏は、山名氏が丹波守護時代に守護代を務めた小林氏の後裔というが系譜は不明である。
本曲輪跡と思われる山上削平地に「澤田城址」と書かれた立派な石碑が建立され、そのかたわらに縄張り図(右写真)、歴代城主を記した案内板が立っている。城址は本丸を中心に小林寺を背後から囲い込むようにして、小山全体に広がっている。とはいえ、山上に築かれた細工所城・八百里城に比べれば、四方を水田に囲まれた丘陵に築かれた平城だが、笹山、飛びの山城などともに篠山盆地中央部の防衛の役目を担っていた。本曲輪は約200uの広さで、東から西へ五段に帯曲輪が設けられている。南側には土塁が築かれ、東南にのびる尾根は馬場跡といい、その先端に毘沙門堂が立っている。一方、本曲輪から右手に伸びる尾根の先端には出羽丸とよぶ曲輪が築かれ、曲輪下には永井殿井と呼ぶ井戸があったと伝えられる。大手は毘沙門堂のあたり、搦手は出羽丸西方の赤池方面であったらしい。
天正三年(1575)に始まった明智光秀の丹波攻略戦に対して、小林平左衛門重範は波多野氏に属して抵抗、天正七年、柏原八幡の戦いで戦死した。その後、沢田城も明智勢の攻撃をうけ落城したという。現在、沢田山一帯は竹薮と果樹に覆われ、山麓には小林寺をはじめ、毘沙門堂、大日堂が立ち、出羽丸跡は墓地になっている。見ただけでは、なんでもない小山に過ぎないが、篠山の戦国時代をとどめた場所のひとつではある。


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沢田城址に登る