戦国時代、北信濃の猛将村上義清は武田信玄と戦ったが敗れ、越後の上杉謙信を頼って失地回復を図ったが果たせず、越後根地城で死んだ。義清の子という頼勝は、豊臣秀吉に仕え加賀能美郡に六千石を与えられ、さらに越後本庄九万石の城主となった。関ヶ原の合戦には家康に属して所領を安堵された。頼勝のあとを継いだ忠勝は、殖産を奨励し、金の増産にも努めた。ところが元和四年(1618)、家中騒動を理由に突然改易のうえ丹波篠山へ配流となった。そして、それから五年後の元和九年九月、二十五歳の若さで死去したのである。位牌は法昌寺にあり、その北方の田圃のなかに墓所が営まれ、いまも回向が続けられているという。
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