篠山の歴史・見処を訪ねる-33


承明門院の供養塔



かつての堂宇の名残が寂しい楞厳寺跡


承明門院の供養塔と女人窟


後鳥羽院の宝塔と平石山経塚

県道本郷篠山線を北上、火打岩口バス停右側の山麓にかつてあった平石山楞厳寺(りょうごんじ)跡にある。承明門院は内大臣源通親の養女で、後鳥羽天皇の後宮となり宰相の君と称された女性であった。
後鳥羽天皇は寿永二年(1183)平家が安徳天皇を奉じて西国に走ったあと、三種の神器がないまま後白河法皇の院宣によって僅か三歳で即位した。後白河が死去したのちは、九条兼実が朝廷を主導し、源頼朝に征夷大将軍の宣下を行うなど兼実は幕府寄りの立場にあった。やがて、九条兼実に対抗する存在として源通親が出頭した。通親の養女在子は後宮に入り、天皇の第一皇子為仁親王を生んだ。為仁はのちに即位して土御門天皇となり、外祖父となった通親が朝廷を牛耳るようになった。建仁二年(1202)、九条兼実が出家し、通親も急死した。ここにいたって、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。
建保七年(1219)、幕府三代将軍源実朝が死去したことで、源家将軍は断絶した。幕府は皇族を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇はそれを拒否した。その結果、わずか二歳の藤原頼経が新将軍に迎えられた。天皇親政をめざす後鳥羽上皇はこれを好機とし、承久三年(1221)幕府執権北条義時追討の院宣を出し、畿内、近国の武士を集合して兵を挙げたのである。いわゆる承久の乱で、結果は上皇方の大敗、捕らえられた院は隠岐に流された。このとき、乱に関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷ったのである。落飾して承明門院と号した在子は、承久の乱後、孫の邦仁親王の養育につとめ、邦仁は即位して後嵯峨天皇となった。波乱の時代を生きた承明門院は正嘉元年(1257)七月五日、八十七歳で亡くなったと伝えられる。
火打岩のある畑の地は、かつて曽我部荘といわれて後鳥羽院領であった。鳥羽院が隠岐に配流されたのち、承明門院は曽我部荘に身を寄せて後鳥羽院の安泰と怨敵北条氏の調伏祈願を祈ったという。さらに、楞厳寺の奥にある洞窟に籠って楞厳経を唱えられたことから、その洞窟は女人窟と呼ばれるようになった。伝によれば、そのむかし、白衣の女人が洞窟のなかで一心に読経を続けていた。その気品のある容姿と振る舞いはただ人とは思えず、村びとたちは食べ物や、身の回りの品を届けるようになった。さらには、承明門院であるとのうわさが流れるようになったのである。乱ののち、承明門院が曽我部荘を訪れたことはあったかも知れないが、白衣の女性が、承明門院その人であったとは考えにくい。後鳥羽院ゆかりの地に暮らす人々の後鳥羽院への供養心から生まれた伝説と考えたい。ところで、女人窟のさらに上方には後鳥羽院の宝塔、平石山経塚などがあり、承明門院をめぐる伝承を彩っている。