八上城下から移築したという山門
波多野氏の家紋を伝える寺紋 ・ 春日神社秋祭りの山鉾が門前を通り過ぎる
波多野秀治の墓碑・甲賀武士の末裔上野家の墓地
浄土宗の寺で、天正のはじめ(1570年ごろ)八上城主波多野秀治が、覚山天誉を開山に迎えて
高城山の山麓に築いたのが始まりである。波多野氏が滅亡し、篠山城が完成したのちに現在地に移築された。本堂・山門は創建当時のもので、楼門は一間一戸重層屋根入母屋造り、本瓦葺きの四脚門で釘は一本も使わぬ組み合せ工法で作られている。本尊の阿弥陀如来は、かつて三岳の南麓にあった福泉寺に祀られていたもので、法道仙人の真作と伝えられている。
開山の覚山天誉は、室町幕府十三代将軍足利義輝の長男義高である。永禄八年(1565)、義輝が
松永久秀の謀反で殺害されたとき京都の誓願寺に逃れ、その後八上城主波多野氏に庇護され丹波で成長した。
長じた義高は誓願寺の善誉上人に師事、のち秀治に迎えられて誓願寺の建立にあたったのである。
世が世ならば室町幕府将軍の地位についたかも知れない善誉上人であったが、丹波で生涯を送り、
晩年は宮田浄福寺に隠居し、同寺で寂滅した。
誓願寺には波多野秀治画像、丹波八上高城山合戦の図などが伝わり、境内墓地には波多野秀治の墓碑が祀られている。
墓碑には「大雄院殿英山玄功大居士」の戒名が刻まれ、傍らには近世波多野氏の墓所があり、
それぞれ「丸に抜け十字」の家紋が据えられている。また、畑家、河南家、喜多川家など篠山独特の家の墓石が
林立している。その一角で見つけた上野家の由来を読むと、甲賀武士の末裔で戦国時代末期に篠山に移住して
きたとある。家紋を見ると「横木瓜」、まさに甲賀伴一族の上野氏の流れであるようだ。誓願寺は波多野氏
ゆかりの寺院であるとともに、篠山の中世をパックしたところともいえそうだ。
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