篠山の歴史・見処を訪ねる-06


河原町商家群








中世、篠山盆地の中心地は高城山麓の八上地区で戦国大名波多野氏も本拠をおいた。波多野氏が滅んだのちも八上が城下町 として続いたが、慶長十四年(1609)、徳川家康は常陸国笠間城主松平康重を八上に移すと新城を築くように命じた。 築城地が篠山に決定すると、天下普請により着工後わずか半年で篠山城が完成した。そして、城を中心に待ち割りが行われた。城の周囲に上級武士の屋敷地、その外郭に下級武士の屋敷地、さらにその外側に京街道を配し、その街道沿いに町人地を形成、要所には寺院を配置するなど、城下町篠山が整備された。町人地には八上城下の商人らが移住し、それぞれ新たに商家を構えた。
河原町商家群は城下町の東部に位置し、京都への出入り口にあたる京口橋に通じる街道の両脇に昔ながらの佇まいを残す家々が軒を 連ねている。河原町商家群は妻入り商家群とも呼ばれるように、間口が狭く奥行きのある妻入り造りとなっている。「妻入り」は 建物の短辺側あるいは屋根の棟と直角な面を「妻」ということからきたもので、長辺側あるいは屋根の棟と平行な面を「平」といい 「平」の側に出入口があるものを「平入り」という。「妻入り」は神社建築にもあるが、商家に多くみられるもので、 一説には税金が街道に面した家の間口の広さに比してかかったため、間口を少しでも狭くして税金を安くしようとしたことから妻入り建築になったのだという。
商家群の表構えは、かつては大戸と千本格子や荒格子または蔀(しとみ)で構成され、中二階は出格子と太い格子を漆喰で 塗り込めた虫籠(むしこ)窓、さらに袖壁、卯建(うだつ)なども設けられた。街に足を踏み込み妻入りの商家が軒を連ねる 風景を見ると、文字通り、江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれる。また、街並みの一角には能楽資料館、 丹波古陶館もあり、古い町並みとともに丹波の文化にも触れることができるところだ。加えて、河原町商家群は平成十六年(2004)、全国で65番目の重要伝統的建造物群保存地区にされた。