篠山の歴史・見処を訪ねる-01


篠山城址



大手前方面より東方の石垣  大手門と大書院  本丸から大手門方面


大書院  天守台跡の石垣  埋み門跡


篠山小学校方面より天守台の石垣  石垣に残された刻印群  南方の土塁跡

篠山は京都から亀岡を経て山陰・山陽両道に通じる要衝に位置し、戦国時代、高城山八上城主に拠った波多野氏の支配下にあった。波多野氏が滅亡したのち、豊臣政権下では前田氏が八上(篠山)を領した。その後、関が原の合戦い勝利した徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。しかし、豊臣秀吉の遺児秀頼は天下の堅城大坂城に健在で、豊臣恩顧の大名である加藤清正・福島正則らも西国に勢力を保っていた。
関が原の合戦後、篠山領はは前田茂勝、ついで松井松平康重が封じられ丹波八上城に拠っていた。大坂城の秀頼の存在を警戒する家康は、慶長十四年(1609)、加藤清正・浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・福島正則ら豊臣恩顧の大名を動因して新たに篠山城を築いた。いわゆる天下普請とよばれるもので、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が担った。十五ヶ国、二十の大名の夫役、総勢八万人の労力による大工事で、わずか六ヶ月で完成した。築城に先立って、現在の王地山公園、東岡谷の飛の山などが候補地にあがったが、現在地が最終築城地に選ばれた。
篠山城の完成によって、家康は諸大名の財力消耗を強いたとともに、西国大名を牽制する重要な拠点を手に入れたのである。慶長十九年、大坂の陣が起こると、松平康重は篠山城から大坂に出陣した。元和五年(1619)、松平康重が和泉岸和田藩に移封となったのちは、藤井松平氏二代、形原松平氏五代、そして、青山氏六代と続き明治維新を迎えた。本丸跡には藩祖青山忠俊と青山家中興の藩主と称された青山忠裕を祀る青山神社が鎮座し、本丸東南隅の天守台からは高城山が間近に望める。
篠山城は馬出の遺構が残っていることで知られる。かつては三ヶ所にあったが、現在、石垣造りの東馬出と土塁造りの南馬出の二ヶ所が、ほぼ往時の姿をとどめている。また、戦前に焼失したままとなっていた大書院が2000年に再建され、新たな篠山のシンボルとなった。再建にあたっては、二条城の大書院を参考にしたのだという。篠山城一帯は、春には桜まつり、夏にはデカンショ祭りの中心会場となり多くの観光客が訪れる。