足立氏の家紋を訪ねて青垣へ。


丹波と但馬の国境に位置する青垣、そこは中世を通じて足立氏が割拠するところであった。 青垣の足立氏は源頼朝に仕えて名をあらわした足立遠元を祖とし、その孫遠政が承久三年(1209)に 丹波国佐治郷を与えられ地頭として移住してきたことに始まる。 一族とともに丹波に遷った遠政は、山垣村の万歳山に山垣城を築き、菩提所として万歳山報恩寺を建立するなどして 足立氏発展の礎を築いた。そして、小和田城、遠阪城、岩本城、稲土城など要所要所に支城を築いて一族を配し 、戦国時代末期まで青垣一帯に勢力を保ったのである。いまも、青垣一帯には足立姓が集中し、足立氏ゆかりの 史跡が散在している。


 
山垣城界隈



集落の東方にある万歳山の山上には山垣城の遺構が残り、山麓は居館址を思わせる高台となっている。 高台の中央部に足立遠政の五輪塔が祀られ、傍らには遠政の顕彰碑が建立され、そこから山上の城址へ 登り道が続いている。城址の出曲輪と思われる高台左手の小山には古い五輪塔や墓石が祀られ、 足立氏の後裔であろう足立家の古い墓地がある。
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●山垣城址 ●城址山麓の高台 ●足立遠政の五輪塔 ●遠政の墓域に刻まれた「酢漿草(カタバミ)紋」と「五本骨扇紋」



遠政の墓域を囲む玉垣の石扉には「酢漿草紋」と「五本骨扇紋」が刻まれ、江戸時代の墓石もみえる 足立家の墓地には「五本骨扇紋」「剣酢漿草紋」が彫られている。
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●遠政公顕彰碑 ●古い五輪塔群 ●五本骨扇 ●剣酢漿草 ●足立家の墓地には江戸時代の墓石も



報恩寺



山垣城とは谷を隔てた西方の山麓にある報恩寺の境内墓地には、足立家をはじめとした山垣集落の家々の墓石が 並んでいる。足立家のものを見ると「扇紋」「酢漿草紋」がほとんどで、変わったものとしては「三つ地紙」紋が あったが、それも扇紋のカテゴリに含まれるものだ。
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●報恩寺庫裏 ●境内墓地に刻まれた足立家の紋 ・五本骨扇 ・酢漿草 ・五本骨扇 ・三つ地紙



遠坂西方寺



その先の山を越えると但馬という青垣最北端の遠坂、そこに足立氏の持庵であったという不遠山四方寺がある。 境内で目を引くのがI家の立派な墓石、家紋を見ると「五つ木瓜輪に隅立四つ目結」である。本堂横の墓地にもI家の墓石が あり「五つ木瓜輪に五本骨扇」が刻まれている。あとで調べてみると、I家は元々足立姓で、西方寺が焼失したとき その再建に尽力された家であった。五本骨扇→瓜輪の付加→四つ目結 と変化した所以が気になったが、聞く人もなく 諦めざるをえなかった。境内墓地を歩くと足立家のものが多く、家紋は「五本骨扇」のオンパレードである。なかに、 「違い扇」を用いる足立家もあったが、これも扇のカテゴリにほかならない。 青垣界隈は足立氏の「五本骨扇」紋のメッカであることが実感された。
また、足立家以外の家でも、その多くが「五本骨扇」を 用いていることも興味深かった。元々は一族であったものか、あるいは家臣であった家が 足立氏から紋を与えられたものか、今後、調べていきたいテーマである。
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●西方寺の石仏 ●五つ木瓜輪に隅立四つ目結 ●五つ木瓜輪に五本骨扇 ●違い扇 ●五本骨扇 の各紋