甲賀の木瓜紋

 
伊賀と並んで忍者の里として知られる近江国甲賀へ一昨年の暮れから昨年の春にかけて再三にわたって足を運んだ。戦国期の甲賀には、山中・三雲・佐治・望月・大原・美濃部・和田などの土豪諸氏が割拠し、甲賀五十三家と称されていた。それぞれの出自は平氏、橘氏、伴氏など一様ではないが、戦国時代の近江に小さからぬ足跡を残している。

それら甲賀武士が拠った山城や、所縁の神社、仏閣を中心に訪ね歩いたわけだが、そのなかで面白い発見をした。甲賀には「木瓜」紋が多いということだ。甲賀武士のうち伴氏一族が「木瓜」を家紋とし、甲賀の総鎮守とされる油日神社大原氏ら伴一族の氏神という大鳥神社が「木瓜に二つ引両」を神紋としていたのだ。 

大原神社 油日神社
左、大原神社 右、油日神社 
   
伴氏は古代豪族大伴氏の後裔にあたる伴善男の子孫だといい、甲賀の伴氏は三河国から移住してきたと伝えている。その真偽はともかくとして、伴氏、大原氏をはじめ上野、岩根、宮島氏ら一族はこぞって「木瓜」を家紋としていた。さらに、伴氏から分かれたという山岡氏・滝川氏らも木瓜紋を用いた。加えて、伴氏の本家にあたる三河の富永氏も「木瓜に二つ引両」を用いていたことは、室町幕府の史料などから知られるところだ。木瓜紋が伴氏に共通した家紋であったことが分かる。 

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左から、木瓜に二つ引両 ・ 山岡氏の「石餅に木瓜」 ・ 滝川氏の「丸の内竪木瓜」

油日神社は油日岳山頂に油日大明神が降臨したことを起源とし、そのとき大光明を発したので「油日」の名が起こったと伝えられる。中世において同社は山岳信仰と深い関係を有し、信楽の飯道山と並んで甲賀修験道の中心であった。すなわち、山野を跋扈して修行に励んだ甲賀修験者たちは、やがて甲賀忍者へと変身していった。その頭目となったのが先の甲賀五十三家であり、かれらが氏神として信仰したのが油日神社だったのだ。

一方、大鳥神社は大原氏の居城跡に鎮座しており、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。祭神は京都の八坂神社と同じ素戔嗚命で、大原祇園社ともよばれる。本殿には八坂神社と同じく「五葉木瓜」が刻まれているが、鳥居脇に立つ石碑には、「木瓜に二つ引両」が「大原同名中」の文字とともに刻まれている。かつて、甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。大鳥神社では、現代でも大原同名中が年に一回社前において会されているという。そこには、中世の歴史がそのまま生きているといえよう。

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左:油日神社の神馬に描かれた神紋 右・大鳥神社石碑に刻まれた神紋

普段、家の紋はともかく、武将の紋、神社の紋などは気にかけられることは少ないのではないか。しかし、家紋・神紋は中世の歴史を現在に伝える遺産の一つであり、旅の道標にもなってくれるものだ。いま、歴史を訪ねる旅を楽しんでいる方が多いと聞くが、紋に目を向けることをおすすめしたい、意外な歴史の面白さに出会えるだろう。