家紋の原形


 家紋の原形は動植物、文様、器財、建造物、さらに自然現象など、ざっと見ても約350種にのぼる。
 公家の紋章に始まった家紋が、やがて武家の間で戦場における印として用いられるようになると 一気に広まった。『吾妻鑑』には、寛喜二年(1230)に鎌倉が騒動したとき、旗を持った御家人らが、執権 北条泰時邸に集まった。泰時はかれらを諭すと旗をあずかり、翌日その旗を紋に照らして持ち主に返したと記されている。 当時、すでに鎌倉武士たちは家の紋を持っていたことがわかる。ついで、元寇の役で活躍した 肥後の武士竹崎季長が描かせたという『蒙古襲来絵詞』には、竹崎氏をはじめ少弐・島津・菊池氏らの旗紋が描かれ 鎌倉時代の中期においては西国の武士たちも家の紋を用いていたことが知られる。さらに南北朝時代になると家紋が 名字の代名詞となっていたことが『太平記』などの記述から分かる。
 かくして、家紋が世の中に広まると同族はもとより、他姓同士でも同じ紋を用いるということも生じてくる。 そこで同族間においては、基本形を損ねることなく家紋の意匠を変化させることで 本家と分家、庶子家の区別をするようになった。たとえば「木瓜紋」の 場合、単純に輪などの外郭を付ける、竪に置く、横に置く、剣を付ける、輪にしても太輪、細輪、二重輪、藤輪、雪輪など を用いることで何種類もの木瓜紋が生まれた。木瓜紋を用いる家が繁栄すると、さらに家紋は 原形を少しずつ変化させながら増えていったのである。

木瓜紋の変化
横木瓜 剣横木瓜 石持地抜竪木瓜 丸に横木瓜

 家紋の図柄がもっとも多いのは「菱」紋で、なんと200種類以上もあるからすごい。 菱紋の特長はその尖った図柄で、丸みを帯びた柔らかなものが多い家紋のなかでは珍しい存在だ。 菱紋といえば武田氏といわれるように、菱紋は武田氏と一族の代表紋となっている。 武田氏は清和源氏義光流で甲斐を本拠として中世を生き抜き、武田信玄を出した宗家をはじめ、 支流は安芸・若狭・上総の戦国大名として活躍した。甲斐武田氏は織田信長に敗れて滅亡したが、 四方に分散した一族一門が血を守り、いまも武田姓は約13万を数えている。 一方、武田氏からは小笠原氏、南部氏、大井氏、板垣氏、松前氏などの有力一族が分派し、 武田姓を名乗らなくても甲斐武田氏から分かれた家は「菱」紋を用いている。 ちなみに、甲斐武田氏が本拠とした甲府市では、 菱紋を使用する名字が百以上もあり、いまも武田氏の同族意識で結ばれているという。 菱紋は「菱餅」を原型として、「割菱」「三階菱」「松笠菱」「花菱」などなど、家が増えるごとに 多彩なバリエーションを生じていった。「家の繁栄が家紋を増殖させる」を実証した武家こそ甲斐武田氏であった。

菱紋のバリエーション
菱紋


 もっとも、家紋が増え出したのは幕末から明治にかけてのようで、江戸時代前期までは苗字・家紋ともそんなに多くは なかったようだ。江戸時代の紋帳には約1000種の紋が収録されていて、これらの紋が比較的古くからあったものといえる。
 ただ、家紋の広がりはそれだけのバリエーションを創造したということであり、またそのひとつひとつがデザイン的 にも洗練されている。これは世界に類を見ない。そして、そこにはシンプルでありながら「心」というか「魂」 のようなものが感じられる。これは 「家紋」がたんなる美しい文様ではなく、「家」の歴史と結びついているからであろう。 わが国の美意識に裏打ちされた伝統美と、国土を切り拓いてきた祖先の魂が 宿っている、それが「家紋」であると言っても過言ではないだろう。





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幕末志士の家紋
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由来ロゴ
家紋イメージ