摂津国-呉服神社




我が国に機織技術をもたらした姫神を祀る、やさしい神話に彩られた古社。


呉服神社
 
●繁華街に立つ鳥居 ●参道の石標と由緒書 ●神門 ●拝殿の神紋

 
●社殿を横から ●池田のえべっさんで有名な恵比須神社 ●恵比須神社の神紋 ●摂社−祓戸神社

 
●摂社−天満宮 ●境内の神石 ●祭神ゆかりの「星の宮」 ●五月ヶ丘古墳東に鎮座する呉服神社(支社)
 
人皇第十五代応神天皇の御代に、猪名津彦命(阿知使主)を中国の呉の国に遣わし機織裁縫の工匠をお需めになりました。その時久礼波・久礼志の二人を案内役として呉の国に赴き呉王に乞うて呉服(くれはとり)・綾織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の四人を伴い渡来する事となりました。帰路九州の筑紫潟に着きましたが兄媛は胸形明神の御望みによりこの地にお留りになり他の媛は摂津の国武庫の浦にお着きになりましたので猪名の港(今の唐船ケ渕)に機殿を建て呉服媛をお迎えいたしました。
呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より、機織裁縫染色の技術が我国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まりました。尚、四季には上妙の衣服を天子に献じ、下は万民に施されました。
仁徳天皇の七十六(385)年九月十八日、呉服の大神は御歳百三十九才という人生に倍する御長寿を以て、お隠れになり、その御遺体は今にその跡を残す梅室、御形見なる三面の御神鏡は姫室にお納め申し上げました。その翌年、仁徳天皇が勅令を以て御神祠をお建てになりました。この大神が糸を様々にお染め分けになった所を染殿井と称し、その糸を掛け晒しになりました数本の老松を衣懸松と名付けその跡は今も残って居ます。
大神の御託宣に『我は衣服の神となり人をして寒暑の憂なく、養蚕機織絹布裁縫の道を守護し、且つ船路遥かにこの日本に帰化せし故海上の難をも無からしめん』とあります。代々の帝、殊にご崇敬篤く、円融天皇の御代には鎮守府将軍源満仲公が社祠を修復、下って後陽成天皇の御宇には豊臣秀頼公が片桐且元を奉行に命じて再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御勅祈願所となりました。
因みに呉服大明神の御名は後醍醐天皇より賜りました。御宸翰より起こり、又これにより我国にて絹布の類をすべて『呉服』と称することになりました。

【『呉服神社の御縁起』転載】

探視トップページへ