家紋 宇倍神社

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伊福部氏



 景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕えた武内宿禰は、朝政を補佐すること二百四十四年に及んだという。景行天皇の御代には、勅を奉じて東北諸国の形勢・民情を視察し、成務天皇の時には大臣に任じられ、仲哀天皇の御世には天皇とともに熊襲征伐にむかい、天皇崩御ののちは皇后を補佐し、応神天皇の御代には三韓人を督して大和に池を掘らせ、あるいは勅命によって筑紫を巡察し、晩年には仁徳天皇の政道に参与したと伝えられる。長寿にして三百六十歳で没したという。

武内宿禰伝説

 もとより、この話を信じることはできない。おそらく、一説にいう武内宿禰のあと、同苗の氏名の者が数代続いたとの解釈が常識的な見方であろう。現在でも世襲の名前が世のなかにあるが、それと同じことであったのだろう。
 『風土記』によれば、仁徳天皇五十五年(367)、因幡国に下向し、亀金岡に双履を残して、その去るところを知らずとある。これは、武内宿禰が大和または摂津に帰郷したことを神秘化したものであろう。その時をもって、宇倍神社の創建と伝えるが、実際のところは、後世武内宿禰の子孫が因幡の国造などに任じられて、いつの頃か祖神を祀ったものらしい。
 延喜の制では、因幡国唯一の名神大社に列せられた。
 爾来、国守・領主等の崇敬は厚く、因幡国一宮として天正の頃の殿宇は壮麗なものであったという。元和年間、鳥取三十二万五千石の藩主池田光政は領主になるに及んで、社領三十石を寄せた。また、当地の代官円山九右衛門は社殿を創建した。
 武内宿禰は伝説のうえとはいえ、長寿でありしかも勲功の多きをもって、明治二十二年以後の一円紙幣にその尊像が描かれ、明治三十二年以降は尊像とともに宇倍神社の全景が配された。
 また、民間では端午の節句の幟などに、武内宿禰が応神天皇を抱き奉る尊像が広く用いられている。かてて加えて、宇倍神社は因幡国府の中心にあり、百人一首に歌われた稲葉山麓に位置し、古代文化遺蹟の中心地でもある。

貴重な古代史料、伊福部氏系図

 宇倍神社の神職は伊福部氏が古来より明治まで務めていた。伊福部氏は伊福吉部・五百木部氏などとも書かれ、大己貴命の子孫を称した。伊福部氏系図は、古代氏族研究の上で貴重なものとされるが、上古の部分は造作の跡が見られる。大己貴命を祖としているが、大己貴命はおそらく伊福部氏奉斎神であり祖先神ではなかったと思われ、系図上で結び付けたものであろう。
 また、伊福部氏系図のなかに見える饒速日命は、物部氏の祖といわれ、大己貴命の系統とは全く子となり、系図中に荒木臣命の子としているのは信じられない。『先代旧事本紀』に所載された物部氏系譜と伊福部氏系譜を比較してみても、饒速日命から伊香色雄命までの間に若干の異同があり、武牟口命は『先代旧事本紀』には見えていない。さらに、伊其和斯彦宿禰が成務天皇の御代に因幡国造になったと系図にあるが、因幡国造家は別系統であった。
 宇倍神社神職となったのは、助茂が最初で、その子の代に二流に分かれている。すなわち久遠の流れである一神主家、 厚孝の流れである二神主家である。久遠の流れは安田氏を称し、厚孝の流れは池淵を称したことが系図から知られる。
【十六葉菊】



■社家参考略系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]