家紋 須佐神社

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須佐(稲田)氏



 須佐の名について「『出雲風土記』には、「須佐郷、郡家の真西十九里である。神須佐能袁命がみことのりして、『この国は小さい国だが住むによい土地である。だから私の名は木や石につけるべきではない』と仰せられて、自らの御魂を鎮め置かれた。そしてただちに御名代として大須佐田・小須佐田を定められた。だから須佐という、ここには正倉がある」と記されている。須佐郷は四周を山に囲まれた箱庭のような小盆地で、須佐神社はその中央部を流れる須佐川のほとりに鎮座し、須佐郷の大神というべき須佐能袁命を祀っている。風土記の「須佐社」、『延喜式』の「須佐神社」である。
 須佐神社は中世に「十三所神社」「十三所大明神」、近世には「須佐大宮」と称していたことが応永二十一年(1414)から文久元年(1861)までの棟札によって知られるが、明治維新後『延喜式』にもとづいて須佐神社とされた。
 社地は古くは北の宮尾山にあったと伝えられ、いまもそこに磐境が残っているという。鎮座の年代は明かではないが、すでに中世には現社地に降りていたらしい。

スサノオ伝説の地

 主祭神は須佐之男命で、櫛名田比売・足名椎・手名椎を併祀する。スサノオは『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔鳴尊」、『風土記』では「須佐乃乎命・須佐能烏命・須佐能袁命」と書かれている。記紀神話によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊の御子神えあり、天照大神の弟神としては天神系、大穴持命の父祖としては地祇系の性格を持つ。すなわち、高天原神話と出雲神話とを結ぶ神としての性格をもたされている。
 最近の古代史では、スサノオのいわゆる「大蛇退治」神話は、飯石郡熊谷郷に伝わる櫛名田比売の説話や飯石郡三刀屋の松本一号墳、大原郡の神原古墳などから鉄製品の主土したことなどからみて、斐伊川筋で製鉄に従事した須佐族の活動がその祖神須佐之男命に託され神話化され、やがて大和国家に採り上げられたものではないかという解釈も生れている。また、伸長した須佐族の勢力が意宇の勢力や杵築の勢力と接触し、その交渉を通じて須佐之男命が出雲神話でも重要な位置を占めるようになったのではないかと解釈するものもある。
 いずれにせと、もともと須佐之男神は神門川中流域の一地方神として発生したもので、須佐の開拓者であり守護神であったものだろう。
 須佐神社の神職を世襲したのは、大国主命の子孫という稲田(須佐)氏であった。稲田は氏で、姓は首と伝える。下記参考系図は『姓氏家系大辞典』所載の須佐家系譜から転載した。ただし、原系図は益成以降すべて父子の体裁で一系につながっている。ここでは、次郎を太郎の弟として兄弟の関係として表記した。とはいえ、兄弟とした二人の父親は誰かとなると明確ではない。
 また、稲田氏は土俗に国造と称し、出雲大社の国造家に比したという。しかし、国造本紀その他に須佐国造は見当たらない。とはいえ、神武天皇のときから歴代にわたって神職に補任され、成務天皇の三十年に益成が国造に補任されて、以後代々国造になったという。ところで、系図に出雲太郎、出雲次郎と初めて注記された益成・国持兄弟(?)の時代にあって、太郎、次郎という名はまだ早きに過ぎるものである。さらに降って、孝時(下記系図にみえる泰孝の玄孫)のとき、出雲太郎あるいは次郎という名は、出雲国司をはばかって雲太郎・雲次郎というように改めたという。
 いずれにしても、稲田(須佐)氏の系図の真偽に関しては、まことに頼りないものといわざるをえないようだ。
【亀甲の内蔓柏】



■須佐氏参考略系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]