家紋 宇倍神社

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穴門山田氏



 伊邪那岐命が、筑紫の日向の橘の小戸にある阿波岐原で、黄泉国の汚垢を禊ぎ祓われた。このとき、神直日・大直日・伊頭乃売の神々が生れ、ついで綿津見三神とともに墨江(住吉)の大神すなわち筒男三柱の大神が生れた。そして、祓い清められた最高の状態をもって、天照大神・月読命・須佐之男命の三神が現われたと神話にある。神々の出生の順序、関係等によって、住吉の神が「みそぎはらい」の神徳をもって、朝野の広く厚い崇敬を受けるにいたった。
 仲哀天皇の九年、神功皇后が三韓の外征に際し「吾和魂は玉身に服いた寿命を守り、荒魂は先鋒となりて帥船を導かん」との神託があり、皇后の外征帰途に際しても再び神誨があった。すなわち、「吾荒魂を穴門の山田邑に祀れ」と。そして、ここにおいて穴門直践立を神主の長として、住吉神社が創祀されたという。ちなみに摂津の住吉社は、この一年後の創建と伝えられている。
 祭神は住吉大神・荒魂・応神天皇・竹内宿禰命・神功皇后・建御名方命で、『延喜式』には式内社として名神大社に列し、長門国一宮と仰がれて明治に及んだ。
 本殿は檜皮葺・九間社流造で、慶安三年(1370)大内弘世が再建したものである。室町初期の代表的な神社建築として国宝の指定を受けている。その構造は、横に長い一棟に五殿の神座を設け、それぞれに千鳥破風をつけ、五殿の間に合の間を設け、流造と春日造の折衷式となっている。また拝殿は、天文八年(1539)毛利元就が寄進したものである。

神功皇后ゆかりの神事

 住吉神の神事に「和布刈(めかり)祭」がある、これは、神功皇后創祀の際に神主践立に命じて、壇の浦の和布を刈り取り、神前に供えてお祭をされたことに由来する。旧暦元旦の未明、神主は本殿において出向祭を奉仕の後、壇の浦の汀にいたり、海神奉拝の後、専用の鎌をもって和布を刈り取り、帰社し、奉献祭を行うというものである。
 十二月八日から十五日にかけて行われる「御斎祭」は、当社において重要かつ厳しい奉仕を伝えて有名な神事である。特に重要な部分は秘事とされ、口伝をもって宮司が継承している。この神事は、神功皇后が大陸交渉の際、住吉大神を奉じて自ら斎戒奉仕されたことに由来するもので、往古は宮中より勅使の参向があった。しかし、天下兵乱がつづくようになると毎年の勅使下向が難しくなり、中世以降国衙官人がこれに代り、近世はその子孫が代々奉仕するようになった。明治以降は社内限りで奉仕。
 「御斎祭」の期間中は神職全員が参籠し、日毎の時報を始め、鳴物・音曲を止め、夜業を廃し屋外の灯りをつけず、氏子中も他出せず、かりに不幸があっても期間終了の後葬送する等の事どもをいまに伝えている。また、期間中は境内の四囲に注連縄を張り廻らし「禁参人」の告札を立てる。さらに、期間中は全員髭を剃らず、爪を切らず、音も立てず、ひたすら斎み籠るという厳粛な神事である。
 住吉神社の神主職は、穴門直践立の子孫が代々奉仕してきた。践立より十代の真山のとき賀田直の姓を賜り、 宮成に至って山田大夫を称し、以後、山田大宮司として神主職を世襲し明治維新を迎えた。維新の際、 摂津の住吉社の津守家が華族に列っせられたが、山田大宮司家は士族の扱いにとどまった。さらに、世襲を改められ、 広く人材登用ということになり、住吉神社大宮司の世襲制は終わりをつげた。
【水巴】



■社家山田大宮司家参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]