家紋 宗像神社

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宗像氏



 宗像神社は三宮から成っており、九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真只中に浮かぶ沖の島に沖津宮、 海岸近くの大島に中津宮、そして陸地の玄海町に辺津宮があり、宗像大社はこの三宮の総称である。「記紀」によれば、 宗像三女神は、天照大神と須佐之男命との誓約によって生まれた神々で、天孫降臨に先立ち、天照大神より 「汝三神、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り天孫に祭かれよ」との神勅を受けて宗像の三宮に天降ったと 伝えられている。
 道中とは、大陸への通路である筑紫の北側海域を指し、宗像大神はこの交通んぼ要衝に鎮まり、道をつかさどる最高の守護神「道主貫」として、天孫のまつりごとを助け、そして天孫より厚く祀られた。また、宗像の地は、宗像大神を守護神と仰ぐ古代の海洋豪族、胸形君の支配する地でもあった。
 大化の改新(645)によって国郡の制が布かれると、全国七大社に神領が設置され、宗像は九州では唯一の神郡として宗像大社の神領に定められた。胸形君は神主として神社に奉仕するとともに、神郡の大領をも兼帯しその行政をつかさどった。皇室との関係も深く、胸形君徳善の女、尼子娘は天武天皇の妃となり、高市皇子を生んでいる。
 天元二年(979)、大宮司職が設けられ、爾来、戦国時代末まで八十代におよぶ宗像(胸形から改め)氏による権威体制が確立した。

大宮司、関東御家人に列す

 鎌倉時代、大宮司宗像氏実が、関東御家人になって武士化し、正和二年(1313)には氏盛が「宗像氏事書」十三ケ条を定めている。以後、宗像郡を中心に領主制を展開し、元弘三年の鎮西探第攻撃に参加している。
 延元元年三月、大宮司氏範は九州に西走してきた足利尊氏を宗像社に迎え、菊池武敏らと戦っている。 筑前の守護は鎌倉時代より少弐氏であったが、南北朝時代に入って一色氏が鎮西管領と兼務し、少弐氏と対立する。 宗像氏俊は一色氏に属し南朝方の水軍の来週を報じている。さらに氏俊は九州探題斯波氏経や少弐頼尚らと、 筑前の各所で菊池方と戦っており、康安元年には足利義詮から宗像城合戦における感状を受けている。 貞治四年には壱岐国守護職に補任した。ちなみに宗像氏の家紋は、『見聞諸家紋』のなかに、 「一つ柏紋(右図)」として収録されている。
 戦国時代を迎えると、宗像氏は大内氏と提携して戦国大名の一となったが、正氏の代からほとんどその幕下となり、正氏は弟氏続に大宮司職を譲り、その子氏男を猶子とした。氏男は大内義隆の従兄弟にあたり、正氏は大内一族の待遇を受け、吉敷郡黒川に領地を賜ってそこに館を築き、黒川殿と呼ばれ、大内義隆の偏諱を受けて黒川刑部少輔隆尚と名乗った。氏男もまたのちに隆像と名を改めている。
 氏男は、陶隆房からの謀叛への一味への誘いを断わり、最後まで大内義隆に従って行動し、義隆が大寧寺で自害をしたときも、敵が近づくのをゆるさず、奮戦して陶方に討たれた。
 黒川隆像の死後、宗像家では家督相続をめぐって争いが起こった。すなわち、正氏と長州妻との間にできた鍋寿丸を擁立する山口派と、正氏が宗像に残した菊姫を擁立して、宗像嫡腹の正統を迎えようとする前大宮司氏続らとの骨肉の争いであった。宗像支配をねらい武力にものをいわせた陶氏が強引に鍋寿丸を入国させ、菊姫母娘は長州派の手によって殺害された。
 鍋寿丸はのちに氏貞と名乗り、天正十四年に死んだ。ここに、宗像大宮司の嫡流は断絶してしまった。近世に入って、 庶流の深田氏が後を継いでいる。
【実付き楢の葉】

・もっと知る ●戦国武将-宗像氏の興亡



■参考略系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]