クリック!大きな紋にリンク 物部神社

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物部姓金子氏



 物部神社の祭神は宇摩志麻遅命で、宇摩志麻遅命は神武天皇東征のとき、賊の大将ナガスネヒコを誅殺するという大功をたてた武将である。その祖先はニギハヤヒ命といい、日本書紀では物部氏の祖という。

石見国造物部氏の後裔

 物部氏は『新撰姓氏録』には、その族は百五氏に達し、古代、蘇我しと対抗して勢力のあった氏族であった。物部神社の社伝によれば、宇摩志麻遅命は皇命により各地の頑凶を征伐し、山陰地方に至り石見に下って当地の八百山に住まい、国内開拓に力を尽くし、神去り給うや八百山の麓に葬り奉られたという。
 命の子孫はこの地に定着し、景行天皇の御代には物部竹子連が石見国造に任じられ、子孫相次ぎ、建久三年(1192)には物部連道美は安濃郡地頭に補せられた。
 その後、文亀・天正年間に再建が行われたが、享保三年(1718)、火災で焼失したが、仮殿に奉斎されること二十年に及んだ。
 延享三年(1746)に寺社奉行大岡越前守は幕命を以て、近隣七カ国に寄付を募集して再建を設計し、宝暦三年(1753)に完工した。しかし、庁舎・宝庫・書庫・厩・楼門などは再建できず現在に至ると社記にある。
 物部神社は延喜式の小社であるが、石見国三十四座の筆頭にあり石見国一宮といわれた。社領の増減はあたが、豊臣秀吉のときは三百石であり、その内訳は百三十石が祭典費、七十石が国造家、残り百石は社家その他の割合であった。この社領は江戸幕府にも踏襲されて、明治維新に至った。
 物部神社の宮司は物部氏の子孫が務め、前記の物部連道美のときに金子氏を称した。道美は安濃郡地頭に物部神社の宮司を兼ねた。以後、子孫連綿として相次ぎ、明治維新に至り、神職の奉仕千五百余年にわたることを思し召されて、出雲大社の千家氏と北島氏、阿蘇神宮の阿蘇氏、日前國懸神宮の紀市らとともに、男爵を賜る光栄に浴した。
 なお、物部神社の創建は、継体天皇の八年(514)のことであったという。
【日負い飛び鶴】



■社家参考略系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]