家紋 吉備津神社

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賀陽氏


 吉備津神社の主神、大吉備津彦命はまたの名を彦五十狭芹彦命、孝霊天皇の第三皇子と伝える。『日本書記』によれば、第十代崇神天皇御宇十年、天皇は天かを制するため、四人の将軍を四道に派遣することとなった。西道に派遣されたのが彦五十狭芹彦命であった。崇神天皇が四道将軍を集めて軍議をしているとき、武埴安彦とその妻吾田姫が謀叛を起こした。大坂から入って都を襲おうとした吾田姫を彦五十狭芹彦命は打ち破りこれを殺し、乱を平らげたあと西道に制き、弟の稚武彦命とともに吉備地方を平定した。
 これによって大吉備津彦い日と呼ばれるようになり、その功績尊崇は永く後世におよび、子孫一族繁栄し吉備国を造ると伝える。
 吉備津彦神社の「鳴釜神事」はよく知られている、「鳴釜神事」は、神饌調理の台所の釜が鳴るという自然現象と、 祭神の鬼退治伝説、王朝時代から中世にかけて備中地方の山岳仏教の聖地として栄えた新山寺の存在などがあいまって 神秘的な卜占の民間信仰として生まれ、『多聞院日記』に見られるように室町時代末期には遠く都にまで聞こえていた。 特に、文人墨客の参詣で賑わいを極めた江戸時代には、紀行文・随筆・物語などにその怪異と神秘が書き残され天下に 有名になったものである。

祭祀のはじめ

 吉備津宮の創建は、社伝によれば吉備津彦命より五代目の加夜臣奈留美命が、吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である吉備津彦命を祀り、相殿に八柱の神を祀ったのが吉備津正宮の始まりであるという。一説には、若日子建吉備津彦命の三代後の稲速別命、御友別命、鴨別命が初めて社殿を造ったとも伝えられている。また一説には、仁徳天皇が吉備津海部直の娘黒媛を慕って難波から吉備国に行幸した時、吉備津彦の功を嘉して、社殿を創建して命を祀ったともいう。
 後白河法皇の編集になる『梁塵秘抄』には、吉備津宮が次のように今様歌で歌われている。「一品聖霊吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北の南の神客人、艮みさきは恐ろしや」。吉備津宮の分社であた艮御崎宮は、特に平安時代の昔から霊異の著しい神として畏敬されていた。
 醍醐天皇の代に制定された『延喜式』では、名神大社に列せられ、承平・天慶の乱の鎮定祈願に功績があったということで、天慶三年(940)には一品に進んだ。それから明治時代に至るまで、「一品吉備津宮」とよばれ人々の信仰を集めた。吉備津神社は備中国一宮でもある。
 室町時代、三代将軍足利義満の命により、応永八年(1401)現在の正宮本殿が完成した。本殿内部は外陣・中陣・内陣・内々陣と続き、外陣から中心に行くに従って床も天井も高くなる。いわゆる「吉備津造」と呼ばれる独特な建築であり、神社建築の伝統的な和風と寺院建築の天竺様や唐風が折衷され、さらに神殿造の手法を巧みに取り入れた室町時代の建築技術の高い水準を示す大建築物である。拝殿とともに国宝に指定されている。
 吉備津神社の社家は、古来賀陽氏が務めた。賀陽氏は、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔にあたる仲彦命が賀夜国造となり、さらにその子孫の高室のとき賀陽臣をたまわり、高室は吉備津神社に奉仕したという。以後、代々吉備津神社神主を務め、真珠に至って賀陽朝臣の姓を賜った。
 しかし、賀陽氏は天正二年、ときの神主高治の死をもって絶家した。

栄西禅師の実家

 ところで、賀陽氏から日本臨済宗開祖である栄西禅師が出ている。栄西は、永治元年(1141)吉備津神社権禰宜貞遠の子に生まれ、比叡山で天台密教を学び、文治三年、入宋し、臨済禅を学び、その印可を受けて帰国。禅宗を広めた。その教勢を妬む天台宗徒の攻撃を受けて、禅宗停止の宣下を受けたことから、鎌倉に下り、幕府に接近した。そして、その帰依と後援によって寿福寺を建立。建仁二年、ふたたび京都に進出し、建仁寺を建て、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし、宗教界の刷新を図ったことはよく知られるところだ。
 また、栄西は、宋より茶を移入し「茶祖」としても仰がれている。かれは、将軍実朝が二日酔いのため床に臥していた時、自ら栽培した茶を勧め、その効能と養生法を記した『喫茶養生記』を献じたという。
【輪違い】



■社家賀陽氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]