吉備津神社は備中の吉備津彦神社の分社で、備後の一の宮である。主祭大吉備津彦命に副え、相殿に孝霊天皇・同細媛皇后・稚武吉備津彦命をお祭りしている。
神職、宮氏の興亡
元弘元年(1331)後醍醐天皇が笠置山へ遷幸されたとき、楠木正成の挙兵に応じ、当宮の祠官桜山これ俊が兵を挙げ、国中の同志を糾合してその衆八百、まさに京都に上ろうとしたが、笠置についで赤坂の落城を聞き、翌二年一月社前において先ず妻子を殺し、社殿に火を放って従者とともに火中に自刃した。
桜山氏は古代丹波氏の族品治姓で別称を宮氏といい、永和年中(1375-79)宮左近将監が社殿を復興した。その結構すこぶる壮大で、その後、社領も広大であったという。宮氏は足利氏に与して勢力を挽回したのである。
宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻め、観応二年(1351)の石見攻めの高師泰の軍勢のなかにおいて奮闘している。翌年の南朝方の京都進攻によって、足利義詮は近江に逃れた。義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が備前の松田氏らとともに功をたてている。宮氏はその後備中守護に任じられている。
兼信の子と思われる盛重が亀寿山城主として活躍、その弟と思われる氏信が康安二年、足利直冬と
富田直貞軍と戦ってこれを撃退している。そのほか、満盛、満重。元盛、教元などの宮氏一族の名が文書にみえるが、
その関係は詳らかではない。満盛以降は幕府奉公衆として活動したらしく、さきに上げた宮氏一族以外にも盛長、
賢盛、宗元、盛秀らが幕府奉公衆、将軍の走衆としてみえている。
・右:宮氏家紋=吉の字に木瓜
戦国時代まで、宮氏は備後の豪族として栄えたが、天文三年(1534)居城桜山城に拠った宮下野入道父子は毛利元就に攻められて降伏した。また、天文十七年(1548)のものと推測される大内義隆書状によれば、宮氏は尼子氏と対立する大内氏に攻められ、その拠城は落城ともみえる。
その後、元就およびその孫輝元は当社に崇敬を寄せ、近世に入っては福山藩主水野氏が黒印三百八十石を寄せ、
ついで慶安年中(1648-52)社殿を造営している。
【桐/五葉木瓜】
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■宮氏参考系図
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