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厳島神社
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佐伯氏/藤原氏
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創祀の時期および事情については、推古天皇の元年(一説に三十二年)この地に出現した「市杵島姫命・田心姫命・瑞津姫命」の三女神が、佐伯鞍職に殿舎を建立せしめて鎮座したとする伝えがある。実際のところは不明だが、筑前宗像社と祭神を同じくすること、瀬戸内海を通じての筑前と安芸との関係等から、宗像社より勧請されたのがこの神社の起源と推定されている。
『延喜式』はじめ旧記には「伊都岐島神社」と記されているが、伊都岐とは斎く、心身を清め神に仕えるの意で、伊都岐島とは神の斎き祭られる島の意であるという。この社の文献上の初見は弘仁二年(811)で、この時、名神に列し、また四紙幣に預かった。神階は、貞観元年(859)に従四位下を得ている。天慶三年(940)には、海賊平定祈願の奉賽として正四位下を授けられた。また、十一世紀半ばには、安芸国一宮の地位を占めるようになる。
平家の崇敬
のちの繁栄の基礎が築かれたのは、やはり平安末、平氏によってである。平家は清盛の父忠盛の頃から瀬戸内海を重視していたようで、その方針を受け継いだ清盛は厳島神社を篤く崇敬した。社殿が現在のような規模をもつようになるのは清盛の時からである。平家一門が奉納した「平家納経一具」は国宝として名高いものである。
鎌倉時代の貞応年間(1222-24)には火災に遭うが、ほどなく再建された。室町時代には足利尊氏や瀬戸内海勢力を制圧した義満らの参詣があり、その後も大内氏・毛利氏などが崇敬を寄せ、篤く庇護した。戦国時代、大内氏を滅ぼした陶晴賢と毛利元就が同神社の神域で戦った「厳島の合戦」は西の「桶狭間」として知られている。
厳島神社の神主家は、安芸国造家であった佐伯氏が世襲していた。平安末期に登場した佐伯景弘は、平氏一門の熱烈な尊崇を背景にして、その卓越した政治手腕を振るい神社に空前の盛運をもたらした。しかし、平氏の滅亡により後ろ楯を失った景弘は一時危機に追い込まれたが、たくみに源氏に取り入ってこの政変を乗り切り、鎌倉幕府成立後も神主職を一族間に伝えた。
ところが、広範な西国勢力を巻き込んだ承久の乱が京方敗北のうちに終わると情勢は一変し、異姓の他人をもって任ずべからずとされていた神主職に幕府御家人である藤原親実が据えられることになった。
藤原氏系神職
藤原親実は中原親能の養子となった者で、系図的には大友氏・門司氏とは一族になる人物であった。以後、神主職は伊都岐島(厳島)神社の祭祀権者であった平氏の佐伯一門に替わって、親実の子孫が世襲することとなった。しかし、鎌倉期は現地に定住せず惣政所とよばれる代官を派遣して神社の統括にあたらせていた。
南北朝期になると、親直は桜尾を居城として次第に国人領主化の色彩を強めていった。そして、厳島社領の領国化と
ともに周防大内氏と結び、応仁の乱では西軍の山名氏に従った。こうして、幕府や大内氏などの軍事動員に応じながら、
近隣領主による社領蚕食に対抗する動きをみせた。『見聞諸家紋」をみると、厳島神主として
「杏葉九曜(右に掲載)」が掲載されている。
これをみても、厳島神主家が武家化していたことがうかがわれる。
永正五年(1508)宗親の跡をついだ興親が病没すると、庶流の友田興藤が後嗣争いを制して跡を襲い、
藤太郎兼藤、広就へと引き継いでいった。しかし、のちに毛利氏への接近をはかったことから、
天文十年(1541)四月に大内氏の攻撃を受けるにおよんで、興藤・広就ともに自害を遂げ、藤原系神主家は
滅亡にいたった。
藤原系神主家の滅亡後の厳島神社祭祀職は、元来の祭祀権者であった佐伯氏が世襲して現代に至っている。
【三つ盛亀甲に剣花菱】
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