家紋 大國魂神社

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猿渡氏


 大國魂神社の祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵の国魂の神と仰いで、お祀りしたものである。 大國魂大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の子神で、古代、武蔵国を開き、 人民に衣食住の道を授け、 医薬禁厭等の方法を教え武蔵国を経営した。しかし、 天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵[ににぎの]尊に たてまつり、 出雲の杵築の大社に鎮座された神であることは、世に知られるところである。すなわち、 大国主命と呼ばれる神である。

遥かなる起源

 大國魂社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年五月五日、大神の託宣に依って創建されたものである。出雲臣天穂日命[のおみあめのほひのみこと]の後裔が、初めて武蔵国造[くにのみやつこ]に任ぜられ大國魂社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を管掌したと伝えられる。その後、孝徳天皇(645-654)の代に至り、 大化の改新(645年)となり、従来あった国造職を廃し、国司を中央から派遣することになった。武蔵の国でも国府が大國魂社のある地に置かれるようになり、 大國魂社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務の中心地となった。
 また、国司が国内社の奉幣巡拝、または神事執行等の便により国内諸神を社内に配祀した、すなわち、これが武蔵総社の起源である。のちに本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・ 秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所官とも称せられるようになった。
 寿永元年(1182)に至り、源頼朝は葛西三郎清重を使節として、その室、政子の安産の祈願(境内にある摂社「宮之口羊(口偏に羊)神社(みやのめじんじゃ)」で)が行われた。 文治二年(1186)、頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また、貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
 降って、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社でもあるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進し、 社殿及びその他の造営に力をつくした。ところが、正保三年(1646)十月、類焼により社殿焼失したが、寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至っている。
 大國魂 社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、 又国内著名の神六所を配祀したので、 「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが 明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と 称するようになった。 当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、 関東一円に亘っている。 

神職、猿渡氏

 大國魂神社の大宮司家は猿渡(さわたり)氏である。藤原姓 を称し、藤原藤左衛門兼延が武蔵国橘樹郡猿渡村に住して猿渡を名乗ったことに始まる。その子信元は鎌倉幕府に仕え、のち薩摩に移住して島津氏の客人となった。その嫡子信景はそのまま、島津氏に仕え、二男実景は武蔵国政所別当となり、武蔵国総社の神主を兼帯した。
 以後、代々武蔵国総社大宮司を務めた。建武二年(1335)、猿渡兼資のとき、足利尊氏の命に従わなかったことから、神領を没収され流浪するということもあったが、その子兼重は武蔵国総社神主職を務めている。
 猿渡氏は、大宮司職を務めながら兵馬の道にも携わっていたようで、戦国時代には小田原北条氏に属していた。そして、豊臣秀吉の小田原征伐が解しされた 天正十八年(1590)、ときの大宮司盛正は八王子城において戦死した。ことから血筋が絶え、その妹が江戸城主遠山景政の妻であったことから二人の間に生まれた盛道が猿渡氏を継ぎ、子孫連綿して現代に至っている。
【菊:境内の堤灯に標されている】



■大宮司猿渡氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]