家紋 氷川神社

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武蔵国造(大部・内倉氏)


 氷川神社は社記によれば、今からおよそ二千百有余年前、第五代孝昭天皇三年の創建と伝えられる。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大巳貴命で、大巳貴命は大国主命とも称し、須佐之男命の子にして国土を天照大神に譲り、国土経営の神となったものである。ちなみに、稲田姫命は須佐之男命の妃で大巳貴命の母神である。
 この三神が氷川の地に祭られたのは国土経営民福安昌祈願のためであって、大和朝廷の威光が漸時東方に及ぶにつれて、氷川神社のも重くなっていたのだろう。地勢上からみても氷川神社のある地は、見沼をひかえ東西南北に展開し交通の便もよく土地も肥沃で民族はいよいよ繁栄し、今日の基をなすに至ったと思われる。
 成務天皇の代には、出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉斎し、善政を布いてから益々神威輝き格式高く、およそ千二百年前の聖武天皇の代には武蔵国一の宮と定められた。『延喜式』神名帳には名神大社として月次・新嘗・案上の官幣に預り、また臨時祭にも奉幣に預るなど歴朝の崇敬は厚かった。
 武家時代になっては、鎌倉、室町(足利)、後北条、徳川氏らのが相次いで尊仰し、祭祀は厳重に行われていた。治承四年、源頼朝は土肥次郎実平を奉行にして社殿を再建いており、文禄五年には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として稲生弥三郎、倉橋文蔵の両人を目代として社頭を残らず造営させ、次いで寛文七年には、阿部豊後守を奉行として社頭の整備、社殿の建立をしている。
 氷川神社の社務家は、大部・武蔵・内倉氏であった。さきにも出た兄多毛比命を祖とし、八背のとき 大部直を賜り、不破麿に至って武蔵宿禰姓を賜った。代々武蔵国造であり、氷川神社に奉仕した。 知られる人物としては、足立郡司武蔵武芝がいる。

天慶の乱のこと

 天慶二年、武蔵国に新しく権守興世王と介源経基とが赴任してきた。当時の地方官は、儲けるることを目的にしていたとさえいえる存在で、かれらも赴任早々に管内を巡視すると言い出した。巡視には住人らの献上もののあるのが普通だからである。
 このとき、二人の新国司の管内巡視に横槍をいれたのが武蔵武芝であった。「権守や介の官内巡視は、守が赴任されてからというのが先例となっています」と。二人は怒って、武芝の言葉を無視して、武装した兵を率い国内の巡視をはじめた。武芝は衝突をおそれて山野に身を隠した。かれらは、足立郡に入ると武芝の所有している土地や屋敷から品物を持ち去ったりした。
 武芝は元来武蔵人としては第一の名家の当主で、郡司として手腕もあり、公事にも精励して、上にも下にも受けのよい人物であった。そして、汚職背任とも縁の遠い人物であった。かれは持ち去られた品物の返還願いを再三出したが、新国司らは返事をせず、ひたすら合戦に用意をしたという。
 このことは、関東一円の評判となり、当時、関東で名を馳せていた平将門にも聞こえた。将門は武芝にあって話をすると武芝はまかせるという。興世王と経基は合戦の準備をすすめたもののいつ合戦がはじまるか不安で、狭服山に入っていた。将門は武芝とともに二人のところに行って、和解のことを話し、二人もそれを承知した。
 興世王はすぐに二人と同行して国府に帰り、仲直りの酒宴をかわしたが、経基はまだ山に残っていた。そんなかれのところに、将門らからの誘いの使者がよこされた。しかし、武蔵介源経基は興世王が将門らと結んで自分を殺害しようとしていると誤解し、京に逃げ上って三人が謀叛と上奏した。しかし、このときは調査の結果、将門らは無実となり、かえって経基は面目を失った。ところが、その後、将門が反乱を起こしたことから、経基は「先見の人」と高く評されたという。そして経基は征東大将軍藤原忠文に従って将門追討に赴いたが、すでに将門敗死のため、何のなすところもなく帰京した。世人は経基のことを「未だ兵道に練れず」と評している。子孫に頼光・頼信・頼義・八幡太郎義家などの武将を生んだ経基も、当時は京都育ちの、武事に不馴れな貴公子であったことがうかがえるのである。
 武芝の子武宗は野与二郎を名乗り子孫は野与氏を称した。一方、氷川神社の社務職は武芝の娘が菅原正好に嫁してその子孫が相承した。後世に至って、物部氏に受け継がれ、社務家は角井氏を名乗っている。
【雲】



■社家武蔵国造氏参考系図
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]