家紋 箱根神社

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別当職


 箱根神社は、かつて箱根権現または箱根三所権現と呼ばれ、奈良時代の天平宝字元年(757)、万巻上人が神託により、瓊瓊杵尊・彦火多々見尊・木花咲耶姫命の三神を箱根山より現社地に奉斎し、一社を創建したことに始まる。
 古来、駒ヶ岳では主峰・神山を神体山と崇める山岳信仰が行われていたが、奈良・平安時代、仏教と習合しその本地垂迹思想の影響のもと箱根山固有の権現信仰が成立した。とりわけ天台系の密教的信仰の影響は大きく、箱根山を中心に多くの修験者が入峰し、関東における修験通の霊場として発展をみるに至った。
 箱根権現は創建時より万巻上人草創の権現社と東福寺とが一体を成しており、いわゆる式外社であったが、朝野の信仰篤く、関東鎮護の古社として崇められた。
 社伝によれば、第五十二代嵯峨天皇は弘仁八年(817)勅により駿豆相の三州を寄進、第六十五代花山天皇の時には、 皇子豊覚王が第十五代座主職に着任、また鳥羽上皇は当社を崇敬し、酒匂郷四十八町を寄進している。

武家の篤い崇敬を集める

 箱根権現の活動が歴史上顕著となるのは平安時代末期から鎌倉時代にかけてのことである。平安時代末期の箱根山別当(東福寺)は行実であった。その父良尊はかねて源為義・義朝父子と親交があったので、義朝の子頼朝が伊豆に流されてくると、頼朝のためにしばしば祈祷などのことを行ったという。治承四年(1180)八月、石橋山の合戦直後、箱根山山中において別当行実は頼朝主従を援助。のち、源頼朝が鎌倉に幕府を開き天下を掌握すると、箱根権現には特別の信仰と保護を加えた。
 箱根権現は、伊豆山権現とともに「二所権現」と称せられ、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準宗祀として将軍家をはじめ幕府御家人の尊崇を集めるとともに、将軍家による社参・奉幣・社領寄進・神馬奉納などに預った。特に将軍自らの箱根・伊豆両所権現への参詣を「二所詣」といい、初代頼朝にはじまり、六代宗尊親王に至るまで将軍家行事として続けられた。またこの時代、『貞永式目』をはじめ武家起請文の神名の筆頭にあげられるほど著しくその神威が高まった。
 室町時代には鎌倉府からも崇敬が寄せられ、さらに北条早雲は永正十六年(1519)四千四百六十五貫余の社領を寄せ、以後、北条氏歴代には箱根神社を重んじた。
 鎌倉神社の社務は専ら別当が執り、鎌倉期には配下に多数の僧兵を擁して勢威すこぶる盛大であった。室町初期から中期にかけては、小田原大森氏の一族から出て、別当職を勤めたものが多い。そして、早雲の次子長綱は剃髪して入山し、幻庵と号して別当に昇進した。
 天正十八年(1590)小田原陣の際、兵火に罹って全山が焼亡、文禄三年(1594)徳川家康が朱印領二百石を寄せ、慶長十七年(1612)社殿を復興した。寛文七年(1667)将軍家綱がまた社殿を造営している。  江戸時代、幕府による東海道の整備・関所の設置にともない道中安全を願う人々で賑わい、庶民信仰の聖地としても発展した。
【三つ割菊】



■別当継承系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]