家紋 出羽三山神社 (月山神社/出羽神社/湯殿山神社)

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武藤氏


 熊野・白山・金峰や・英彦山などと並んで修経道の聖地とされた羽黒山・それに月山・湯殿山を合わせて出羽三山といい、それぞれの山頂にある神社を総称して出羽三山神社という。
 月山神社は月読命を祭神とし、延喜式の神名帳に「出羽国飽海郡 月山神社」とあり、名神大社で、もとはツキヤマと読まれていた。社伝によると推古天皇の元年(593)崇峻天皇の皇子蜂子皇子によって羽黒山が開かれ、ついで月山・湯殿山が開かれたという。ただし『日本書紀』』にはこの皇子の名はみえない。
 貞観十八年(876)月山神社は正三位に叙せられ、元慶三年(879)に神封二戸が寄せられて、翌年従二位に進んでいる。
 羽黒山の出羽神社は延喜式の神名帳に「出羽国田川郡 伊氏波神社」とあり、祭神を伊氏波神というが、これをのちに倉稲魂命に当て、中世以降は垂迹神は玉依姫命、本地仏は弥陀・大日・観音とするようになった。このため、一般には羽黒大権現・羽黒三所権現とも称された。
 湯殿山神社は湯殿山頂にあり、古来、社殿そのものは設けられず、沢辺に添って湧出する熱湯泉を神体とし、 月山の奥の院ともいわれる。山名は湯出沢によると考えられ、神名帳に「出羽国田川郡 由豆佐売神社」とある。 祭神は大山津見命とされるが、また大己貴命義彦火々見尊ともいう。火の神と考えられたため己火山(こいのやま)と 呼び、転じて恋の山とも書かれた。

武藤氏の支配

 この三山を畏敬した古代の山岳信仰は、やがて天台宗・真言宗の密教と結びつき、いわゆる羽黒修験道を生みその霊地として発展した。源平時代にはすでに山伏の道場として知られ、中世以降、東北・関東あるいは熊野からも参籠修行する行者が集った。社務は社僧であった別当が統轄していたが、室町時代の中頃から在地武士の勢力が伸び、土豪の武藤氏が別当職を譲り受けて実権を握り、部将三人を長吏に任じた。
 武藤氏は藤原姓で、始祖氏平は武藤頼平の子で、鎮西奉行資頼の弟にあたる。武藤氏平は大泉荘地頭職となったことにより大泉氏を称した。のち長盛のときに出羽に下り大宝寺に居住したので、以後、大宝寺氏とも称した。
 寛正三年(1462)大宝寺淳氏は出羽守に任じられている。そして、その子政氏が羽黒山の別当を兼ね、大宝寺氏は羽黒山を牛耳ることによって、その権威を利用しながら勢力を拡大していったようだ。
 武藤大宝寺氏の最盛期は義氏の代であった。庄内はもとより最上地方をうかがい、由利郡に進出して秋田氏と対立した。しかし、その領国をかためずして外征にあけくれした結果”士民陣労”となり、ついに近臣前森蔵人の裏切りを契機に国一揆が起こり、義氏は自害した。そのあと、弟義興がたったが、内紛はやまず、ついに最上義光が大軍をもって介入してくるにおよんで、義興も自害して果てた。
 武藤氏滅亡後は最上氏がこれに代わり、ついで上杉氏の手に移ったが、近世に入って三山の衆徒に委ねられた。
【巴】



■武藤氏参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]