家紋 彌彦神社

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高橋氏


 創祀は詳らかではないが、社記によれば和銅四年(711)には神域を拡げ、社殿を増築したと伝えられている。また『万葉集』巻十六に彌彦神社を詠んだ和歌二首が記載されていることから、この時すでに創建されていたことが推定される。
 祭神は天照大神の曾孫にあたるとされる天香山命で、またの名を高倉下命ともいう。天孫降臨にお供して天降り紀州熊野に住まっていた。神武天皇東征のとき、「フツノミタマ」の剣を奉って日本の建国に貢献したと伝える。そして、神武天皇即位の四年に越後の国土開発の命を受けて、この地方を平定し、住民に漁労、製塩、農業などの技術を授けて越後地方の産業文化の基礎を築いたとされる。
 仁明天皇天長十年(833)には、霊験あらたかなるにより『名神祭」に預り、延喜の制には名神大社に列し、村上天皇の天暦元年(947)には正一位に昇階した。
 室町時代から江戸時代にかけては、名将上杉謙信をはじめ地方各武将の信仰は篤く、代々の幕府も神領を保護し、源頼朝は三千貫の社領を定め奉ったと伝えられている。
 江戸時代初期、越後高田の城主松平忠輝は五百石を寄進し、三代将軍徳川家光以後の代々の徳川将軍は五百石を朱印地として寄進している。

神職、高橋氏

 彌彦神社の神職家は高橋氏であった。 高橋氏はには二つの流れがあり、まず、孝元天皇の皇孫大稲輿命の子磐鹿六雁命の流れがある。この命は景行天皇に新鮮な蛤のナマス料理を差し上げ、天皇はいたく喜ばれ膳の姓を賜った。そして、その子孫が高橋氏となった。その後、朝廷の食膳を司る家柄として、高橋朝臣を賜姓された。もう一つ、大和国添上郡「高橋神社」の所在地高橋邑から出た古代豪族物部氏の流れがある。また、高橋氏は神社に関係の深い名前でもある。
 古代、神霊を呼ぶとき、高い柱を立てた。高い柱は天と地を結び、神の降誕を願う聖域の目印となった。神殿の階も同じである。そして、高い柱がなまって「高橋」に転じたというのである。彌彦神社をはじめ、各地の八幡社や山王社などの神職には高橋氏が多い。
 では、彌彦神社の神職である高橋氏はどのような出自をもつのだろうか。実は、その出自は詳らかではないのである。系図によれば、高橋祝光孝がはじめて彌彦社を建てたとあり、その後裔にあたる光任は源義家に従って奥州の戦役に供奉したとある。そして、光任の子孫が彌彦神社の神職を世襲したとしている。
 ところで、この光任は景行天皇の孫大宅王を祖とする大宅真人真城の後裔の光任と同一人物と推定されている。とすれば、彌彦神社神職高橋氏は大宅氏流ということになる。しかし、実は彌彦神社の神職である高橋氏は、大宅姓高橋氏の光任を自家の系図に紛れ込ませたのではないかとする説もある。
 彌彦神社の神紋は「大の字」であるが、大宅姓高橋氏の代表紋も「大の字」なのである。室町時代に成立した 『見聞諸家紋』を見ると、高橋氏の家紋として「大の字」が収録されていることからも、それは裏付けられている。 こちらの高橋氏は、さきの大宅姓光任の後裔で、中国地方に勢力をもっていた。戦国時代に至って、毛利氏と対抗して 滅ぼされた高橋元光・興光父子が知られている 。
【丸の内大の字】



■高橋氏参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]