家紋 若狭彦神社

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牟久氏


 上・下両社があり、総称して「若狭彦神社」「若狭国鎮守一・二宮」あるいは「上・下宮」ともいう。さらに二神を若狭彦・若狭姫と呼び、同社縁起によると彦神は霊亀元年(715)、姫神は養老五年(721)に遠敷川の上流右岸の奇岩上に垂迹したと記す。そして、この所を鵜の瀬といい、奈良東大寺二月堂若狭井の水源と伝承され、毎年三月二日送水神事が行われている。
 若狭彦神社は奈良時代にはすでに所在していたことは『続日本紀』宝亀元年(770)八月一日の条に朝廷より伊勢朝臣諸人・佐伯宿禰老が遣わされ神馬を奉納したことが記されていることでうかがわれる。『延喜式』神名帳には「若狭比古神社二座大名神」とあって神格も高く、貞観元年(859)には従二位から正二位へ上階している。
 当神社が若狭国一の宮として成立するのは、平安末期から鎌倉初期と推定される。このことは、乾元二年(1303)に集約筆写された詔戸(のりと)次第に建暦二年(1212)正月二日の国庁神拝、大介藤原朝臣奉幣が記されていることで推察される。さらに、二月の例祭詔戸には国衙の在庁官人や郷官吏、万民百姓らの安穏祈願もあって、幅広い階層にわたって信仰を集めていたことが知られる。
 鎌倉中期、上・下社併せて二十四町歩の神領があった。寛元元年(1243)には社前に市庭がたち、建武元年頃は七の日が定期市となっていた。一時中断したが、応永十四年(1407)再開され、下社の門前市として繁栄した。
 南北朝期から室町期には、武家方の崇拝もあって守護による社殿の再建・修理、大鳥居の建立があり、近世でも歴代国主の庇護を受けたが、神領は太閣検地で没収され十一石となった。
 
神官、牟久氏

若狭彦神社の神官は牟久氏で、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔鴨別命の子小篠が笠臣を賜り、笠氏の祖となった。そして、笠朝臣名高の子節文が若狭彦社の禰宜となり、以後子孫は若狭彦神社の社務職を務めた。景安に至ってはじめて神主となり、かれの子たちの代から牟久氏を称するようになったという。
 中世では遠敷郡を中心として有力国人と縁を結び勢力拡大に努めた。一族からは、室町幕府の奉公衆も出したようで、 室町中期に成立した『見聞諸家紋』を見ると牟久氏の家紋である「三本笠(右図)」が収録されている。牟久氏の紋は先祖が笠氏であることを紋章化したもので、家紋の性格が知れるものでもある。
 ところで、若狭彦神社・若狭姫神社には「若狭国鎮守一二宮禰宜代々系図」が伝わり、禰宜家の一族は、神社近辺の小地名牟久を名字の地として牟久氏を称したことが知られる。そしてこの系図は十二世紀後半ごろからの系図が、ふつうの系図のように男系だけではなく、女系を広く含んでいることで注目されているものである。
 すなわち、同系図には牟久氏と姻戚関係にある他氏の系図、さらにその他氏と婚姻となっているこの氏の系図がある程度詳しく書き入れられているのである。たとえば、十代の禰宜利景の女は、一・二宮に付属する祈祷所の供僧多田慈心坊の妻となり、多田資政を生み、資政は御家人の和久利政氏の養子となっている。同じように十一代禰宜景高の女の嫁した池田氏の系図が盛り込まれ、十二代禰宜景継の女の場合は、その夫木崎沢方俊氏の系図はもとより、俊氏自身の孫娘の嫁した在庁官人田中氏の系図までが記されているのである。
 このように、女系図をたどった結果、この系図はさきの諸氏のほか、鳥羽氏、和田氏、木崎正行氏、和久利氏、倉見渡部氏、印庭氏などの諸系図の断片を見い出すことができるのである。
 この系図から、若狭に垂迹した神の値筋を汲む若狭国の精神的中心としての一、二宮禰宜の立場、この系図の作成された南北朝後期の国の状況など、さまざまの事情が伏在していることが想像されるのである。現在、同系図は京都国立博物館に所蔵されている。
【波に宝珠】



■宮司牟久氏参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]