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津島神社
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堀田氏
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津島神社は古くは津島牛頭天王社と呼ばれ、“西の八坂神社、東の津島神社”と並び称される。いまでも一般に
「津島のお天王さま」と呼ばれている。社伝によれば、祭神は建速須佐之男命で命は、欽明天皇元年(540)西海対馬
より来臨し、対馬が転じて津島と称したと伝える。
建速須佐之男命は、天照大神の弟神にあたり、また御相殿に祀られた大穴牟遅命は建速須佐之男命の婿で、
日本の黎明期に出雲の地に住し、親子二代にわたって国土の経営、産業の振興につとめた。「国譲り神話」の
大国主命としても知られる神である。
厄病除けに神威
その神徳は広く知られているが、津島神社においては人の身に起こる災厄と疫病とを除き給う徳と授福の神として崇められる。このことは、和銅六年勅命によて編まれた『風土記』のなかの「備後風土記」の逸文にみえる蘇民将来伝説からきている。
弘仁元年(810)勅により日本惣社の号と正一位の神階を奉られ、一条天皇の正暦年中、天王社の号を賜ったと伝え、現在東海五県を中心として全国に約三千の分霊社がある。
鎮座以来歴代の武門、貴賤から篤く尊信されたが、殊に戦国時代津島の隣邑勝幡城主織田家の信長は、津島神社を氏神と仰いで造営その他に奉仕し、また信長につづき秀吉をはじめとした豊臣一門は、社領を寄進し造営を援けるなど信仰が篤かった。
津島神社の祭礼のなかで有名なのが「尾張津島天王まつり」である。この祭りは疫病除けの神事として行われるもので、その由来は『浪合記』によれば、建武中興の失政後、後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王は信州浪合村で戦死され、その子良王は津島に落ちのび保護された。この良王を守る津島の四家七党の武士が、北朝方の佐屋村の黒宮台尻守を船遊びにことよせて討ちとったことに始まると伝える。とはいえ、異説もある。
いずれにしても人々が疫神を迎えて祀り、疫神を統御する祭神の偉大な威力によって夏の酷暑を過ごそうと祈念する、古くからの信仰行事であることは間違いない。
津島神社の祠官は紀姓堀田氏である。境内には摂社として弥五郎殿社があり、祖神武内宿禰と大穴牟遅命を奉斎している。社伝によると、正平元年(1346)南朝方の忠臣堀田弥五郎正泰が創建したと伝えている。正泰は正平四年に河内四條畷において武家方と戦って戦死した。
系図によれば、京都の八坂神社の執行職を務めた俊全の子俊重が尾張津島天王の祀宮職の始めと記されている。そしてその子重遠が堀田阿波守を称して津島天皇祠官を務め、以後かれの子孫が祠官職を務めた。近世大名の堀田氏も紀姓を名乗り、津島神社祠宮堀田氏の一族といわれている。
【木瓜】
■社家堀田氏参考系図
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