家紋 諏訪神社

アイコン
諏訪氏(上社)・四本足に三本梶
金刺氏(下社)・五本足に三本梶


 信濃国の一宮である諏訪神社には、下社と上社がある。上社は諏訪湖の東南、宮川を遡った守屋山の北麓にあり、下社は諏訪湖の北、下諏訪の町外れにある。
 上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
 諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
 その後、大同元年(806)神封戸七戸が寄せられ、貞観七年(865)諏訪郡の水田三段が社田として寄せられた。『延喜式』の神名帳には「信濃国諏方郡 南方刀美神社二座」とあって、ともに名神大社とされている。次に神階を見ると、承和九年(842)五月、南方刀美神に従五位下、同年十月、建御名方富命前八坂刀売神の従五位下が授けられてより、以後次第に累進して、天慶三年(940)建御名方富命が、永保元年(1081)八坂刀売神が、ともに正一位に達した。また、平安時代以来、諏訪神社は信濃国の一宮とされ、のちに仏教の影響から特に上社は南宮大明神・法性大明神とも呼ばれた。

武士団、神党の繁衍

 治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。
 もと両社の神主家は系統を異にしたが、平安時代の後期以来、一族が武士化するにともない、著しく系図が混乱し、さらに源氏とも紛れて、どれが正系か判別が難しくなってしまった。
 下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。のち武力を蓄え、名字を諏訪と称し、また手塚ともいい、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。以後代々下社大祝職を継いできたが、戦国時代に断絶し、支族の今井氏が入って武居祝と称し、大祝を名乗ることはなかった。
 上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神神社の社家大三輪家と同系だろうか。平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。
 宗家は早くから諏訪氏を名乗ったであろうが、関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出などの諸氏が分出した。戦国時代に武田氏と争い、1542年大祝頼重が武田信玄に謀殺されて、大祝家は断絶した。しかし、従弟頼忠が徳川家康に仕えて所領を安堵され、その子・頼水は諏訪高島郡三万石を与えられて、近世大名として明治維新を迎えた。なお、諏訪大祝職は頼水の弟頼広が継いで、子孫相継いで明治に至った。
 諏訪大社では、七年目毎の寅と申の年に行われる「式年造営御柱大祭」が知られる。御柱大祭は社殿の建替と、その四隅に「おんばしら」とよばれる樅の大木を曳き立てることに大別される。古い記録に平安時代、桓武天皇の御代から信濃国の総力をあげて奉仕されたとある。江戸時代以降は諏訪藩主の指揮によって、宝殿の造営と御柱の曳き建てが行われ、現在では旧諏訪郡二十四ケ町村二十万人の氏子の人達の奉仕によって盛大に行われる。
 上社は八ケ岳の御小屋の神林、下社は霧ケ峰中腹の国有林から直径一メートル余、重さ十二、三トン、長さ十七メートル余の巨木八本ずつを木遣歌にあわせて曳き出す。途中、急坂の木落しや川越えがあり、豪壮雄大なこの祭は天下の奇祭といわれている。【梶の葉紋】

・詳細情報にリンク
………
●諏訪氏と梶の葉紋 ●上社大祝諏訪氏の情報 ●下社大祝金刺氏の情報



   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]