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熱田神宮
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尾張氏/千秋氏
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熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まる。第十二代景行天皇の御代、日本武尊は神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で死去した。尊の妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地に祀られた。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきた。
熱田神宮の大宮司家は、当初尾張氏で火明命の後裔と伝え、大和国葛城郡高尾張邑に起こったという。尾張国造として尾張の古豪となり、熱田大宮司職を世襲した。のちに員職のとき、外孫南家藤原季範に大宮司職が譲られて藤原姓となった。
千秋氏の武士化
季範の娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。それ以後、大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。憲朝の代に至り、三河国設楽郡千秋の地名を以て、名字としたのに始まるとされる。以後、直系は千秋氏を名乗った。
千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官にまかせていたのだが、戦国時代にいたって、尾張知多郡の羽豆崎城に移ってきた。社領を直接支配する必要に迫られたのであろう。しかし。この頃には、かつて三国にも及んでいた社領もわずかに残るのみであった。
尾張に乗り込んだ千秋氏は、守護代の一族として急速に勢力をつけてきた織田信秀と結び付く。世は戦国時代、
実力がものをいう世界、熱田宮の「大宮司」としての特殊性を認められていても、世俗的には尾張の国人の一人に
過ぎなかった。
・右図:『見聞諸家紋』に見える千秋氏の紋
かくして千秋氏は信秀の指揮のもとに各所での戦に駆り出される。天文十三年、当時の大宮司千秋季光は、稲葉山城攻めの時に戦死。長男の季直も戦死か、なんらかの闘争に巻きこまれたかで自然死ではなさそうな若死。その弟の季忠は、すでに神官という性格ではなく、まったく武士そのものであった。彼は大宮司とは名ばかりで、信長の一部将として活躍している。そして。桶狭間の戦いのとき、今川軍の先鉾隊に戦いを挑んで戦死してしまった。
季忠の嫡子、のちの季信は、この時母の胎内にいた。母は実家の浅井氏に戻って、季信を生み、育てたという。季信は十五歳で、初めて信長に謁した。そして、「これからは軍事にたずさわることを止め、大宮司に専念するようにせよ」と言われたという。その後も信長の統一戦は続くが、千秋季信がそれらの戦いに参加したという記録はない。信長のことばに従って大宮司職に専念したようで、子孫は明治に至った。
なお、熱田神宮の祝師職田島氏、総検校職馬場氏が尾張姓、別宮八剣神社祠官大喜氏は守部姓など、社家はすこぶる多く、粟田・長岡姓など庶流150余家を数えている。
【桐竹紋】
■千秋氏参考系図
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