家紋 居多神社

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花ケ前(商長)氏


 古代越後国府の所在地で、上杉謙信の城下町として知られた越後府中を東に見下ろす丘陵上に鎮座する。もともと能登・越中の気多神社と同じく、「ケタ」神社であったが、現在では「コタ」と呼称する。祭神は、大国主命・奴奈川姫命・建御名方命・事代主命を祀っている。
 『古事記」にみえる、大国主命が高志の奴奈川姫命を妻問いしたという伝承はあまりに有名であるが、これは古くから日本海を通じて、出雲と高志との間に文化の交流があったことを物語っている。社伝によれば、大国主命は、居多神社の地で農耕・漁業・殖産などの技術を教えられたという。
 居多神社の国史における初見は『三代実録』貞観三年(861)八月三日の条で、従五位上居多神が弥彦神とともに従四位下を賜ったとあり、ついで『延喜式』神名帳に「越後国頚城郡十三座」のなかに居多神社とある。居多神社は、古代の越後国府の近くに鎮座していたことから、国分寺とともに国司の厚い保護を受けて栄えた。

越後史との関わり

 降って承元元年(1207)、親鸞が越後国府に流罪となった折、当社に参拝し、

すゑ遠く 法を守らせ 居多の神 神弥陀と衆生の あらん限りは

と詠んで神前に供え、早期の恩赦免と念仏の興隆を祈願したところ、一夜にして境内の草が片葉になったという。すなわち、今日も境内に群生する親鸞聖人越後七不思議の一つ「片葉の芦」の由来である。
 さらに降って、南北朝の動乱が一段落した貞和三年(1347)、室町幕府から社殿修造費として田井保の三分の二を、観応二年(1351)には越後守護上杉憲顕から荒時保の保司分を社領として賜り、以後、守護上杉家と守護代長尾家の保護を受けた。また、天文十一年(1542)の守護上杉定実起請文などに「当国一宮居多大明神」と書かれているように、居多神社は中世に越後一の宮として崇敬された。
 戦国時代、居多神社も戦乱にまきこまれ、天文二年(1533)守護上杉氏一族で上条城主であった上杉定憲の兵によって社殿を焼かれた。しかし、守護代長尾為景は当社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約した。降って、天正六年(1578)三月十三日に上杉謙信が死去し、養子景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った「御館の乱」に際して、居多神社は景虎片に味方したため、景勝軍の攻撃をうけて社殿を焼失した。このとき、神主花ケ前盛貞・家盛父子は能登・越中へ難を避け、慶長三年(1598)景勝が会津に移ると、帰国することができ、翌四年、春日山城主堀秀治から社領十三石の寄進を受けた。
 こうして昔日の面影は失ったものの、江戸時代には幕府から高百石の朱印地を賜り、高田藩主榊原家の庇護を受けて復興し、明治維新後県社に列した。いまも、縁結び、農耕、商売繁盛の神として信仰を集めている。  居多神社の神主は花ケ前氏である。崇神天皇の皇子豊城入彦命の九世の孫宗麿が商長(あきおさ)首の姓を賜り、その五世の孫盛香は商長宿禰の姓を賜り居多神社の初代社務となった。以後、連綿として社務職を世襲し現代に至っている。  戦国時代に京都の文化人たちがあいついで越後府中を訪れ、上杉家の庇護を受けたが、文明十八年(1486)京都常光院の僧尭恵が居多神社に参拝した折、神主はながさき(花ケ前)という老翁が「居多明神はその昔、神功皇后の三韓征伐のときから北海鎮護の神としてあらたかである」と語ったので、尭恵は居多明神への手向けとして

天の原 雲のよそまで 八島もる 神屋涼しき おきつしほ風

と詠んだと「北国紀行」にみえている。現神主の花ケ前盛明氏は、上杉氏をはじめ、越後の中世史の研究者として知られ、その著作も多い。
【巴】



■社務家花ケ前氏参考系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]