家紋 気多大社

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桜井氏


 気多大社は能登半島の基部羽咋市寺家町の鬱蒼たる森を背景とし、海に向かい南面 して鎮座する。古来、気多神社とよばれるほか気多大神宮、気多大明神とも尊称された。祭神は大国主神(大己貴命)で、出雲国から来臨して能登半島を平定開発し、やがて鎮際されたといわれている。また、崇神天皇時代の建立とも伝え、神代の鎮座ともいわれている。
 気多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』である。天平二十年(748)、越中守大伴家持が参詣して、

 之乎路から直超え来れば羽咋の海
 朝凪ぎしたり船楫もがも


と詠んだ歌が巻十七に出ていることは有名である。
 朝廷の尊崇が厚く、神護景雲二年(768)には神封二十戸と田二町を寄せられたのをはじめ、しばしば奉幣を受けた。神階も累進して貞観元年(859)には従一位にのぼっている。このような国家の特別な尊信は、東北経営、あるいは対外関係に気多の大神の神威が仰がれたからであろう。
 平安時代の初めには名神大社に列し、祈年祭の国幣にあずかった。すでに分祀や御子神が但馬、越中、越後などの日本海沿岸や飛騨にも祭られたくらいに神威が広まり、やがて能登の一宮として重んぜられるようになった。
  中世以降は武家の信仰を受け、建保五年(1217)将軍源実朝が公田として十一町余を寄進している。中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していた。能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。近世には、前田利家をはじめ歴代の加賀藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をしている。
 気多神社の社家は、古代は宮司・禰宜・祝の神職が任命され、神宮寺も設けられたことが国史に見える。近世の社家は大宮司家桜井氏を中心に、二十三家を数え、社僧は長福院・正覚院・薬師院・地蔵院が奉仕したことが知られる。
【桜(神社事典から)、巴とするものもある。】


   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]